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金メダルという大目標に早々に達してしまう人。それは神の愛でし人であり、それゆえに神の試練を受ける人であると思う。
羽生結弦は才能と努力だけで金メダルをとったのではない。誰もが知るごとく、並はずれた才能と並はずれた努力をもってしても金メダルに届かない者が大勢いる。羽生はフリーで大きなミスを二つ犯したにもかかわらず、ライバルもミスをしたために勝った。あっけなく勝った。羽生の金は「運」によってもたらされた。
「運」を与えたのが神であるとすれば、神はなぜか羽生を選び、彼に目標をあっさり達成させることによって、金メダルなんかよりもっと大きなものに向かえという試練を課したのだ。金メダルよりもっと大きなものが何なのか、それはわからない。自分で考えろ――これが神の沈黙だ。
大変な試練である。取り逃がしたメダルを諦められず、気が遠くなりそうな4年後を目指すという困難なチャレンジの方がどれだけ楽だろう。少なくとも目標は、到達点ははっきりしているのだから。
80年代、北尾という類稀な才能の力士がいた。稽古嫌いと素行の悪さが噂されていたが、本気で鍛えれば、バランスよくすくすくと伸びた2メートルの巨体はスケールの大きな大横綱を予感させた。ところがこの北尾、本気で鍛錬する前に、優勝経験もないのに、あっさり横綱になってしまった。当時、横綱が一人(千代の富士)しかいなかったため、横綱審議委員会は、事実上、横綱の基準を下げて北尾を横綱に推挙してしまったのだ。
相撲の門を叩いた者なら誰もが夢見る「横綱」の地位をいとも簡単に手に入れた北尾。彼もまた、神に選ばれ、試練を課されたのだ。おまえにとってここは到達点ではない。すべてはここから始まる。さあ、どうする――彼は耐えられなかった。一年後、双羽黒という立派な四股名をいただいていた彼は相撲界に後足で砂をかけて逃げ去っていた。一度も優勝しないまま。
羽生結弦。彼もまたいかなる神に愛されてか、試練の前に立たされている。選ばれた者のみが背負うものの大きさを思い、祈る。
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