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>macskaさん:
>問題としているのは「らしさ」ではなく、「らしさの規範」ですよ。それはすなわち、個人のあり方ではなく制度を問題としているという意味にはなりませんか?
だから、その「らしさの規範」というのは、政府や行政が作っている制度なわけではなくて、国民が、伝統的な慣習や、慣例や、生活習慣といった、無意識の不文律の形で行っているわけでしょう。
それを、行政の側から変えようとすると「断髪令」や「廃刀令」のように、強権の形で、伝統的な生活慣習を変えるよう強制しなくてはならないわけですね。
すると封建主義の昔ではない、民主主義の現代では、それが不当な押しつけにならないよう国民の承認をとらなくてはならない。正当性がある強制なんだという形のコンセンサスを形成するしかないわけですね。(例:人ごみでタバコを吸うな)
それで「ひな祭り」を例に揚げて、「ジェンダーフリー」を啓蒙しようとしたら、国民から「それはやりすぎ!」という抗議がいっぱい寄せられて、あわてて取り下げたわけですよ。
>これは文字通り同意できません。なぜなら、現に特定の「男らしさ・女らしさ」が優遇されているときに「中立」の立場に立つことは、結局現在優遇されている層がそのまま優遇され続けるということになるからです。「中立な制度」を実現するための施策が一時的に「中立」よりも「これまで不利だった側を優遇」する形になることはありえます。
つまり「ひなまつり」で言うと、「女の子だけどひなまつりをしたくないと思っている女の子」に合わせて、親に対して「押しつけていませんか?」と啓蒙するのが正しいということですね。でも、そんな女の子が何処に居るんですか?
性同一性障害者や、半陰陽者の例を挙げてもダメですよ。その場合は、「ジェンダーフリー」じゃなくて性同一性障害者の事例や半陰陽の事例を、そのまま啓蒙したほうが抵抗も少ないし、救済が早いからです。現に、当事者のサポートグループはそうしています。逆にジェンダーフリーに対しては距離を置いている。アピールの論点がボケるからです。大峰山の時に至っては、伊田グループに対して抗議までしている。
->わたしは必ずしもジェンダーの規範の問題においてそうするべきだと主張するわけではありませんが、論理の問題として「中立」を実現するための施策が「中立」ではなくても容認されることもあるという点は指摘しておきます。具体的にどういう施策なら容認されるべきかというのは難しいところであり、個別に議論すべきでしょうが、必ず「中立」でなければならないという事には同意しません。
最近、神戸では、ついぞこの間、教育委員会がMTFの子供を、女子として小学校に入学を認めたばかりです。世界、初だそうです。日本って、自由でいいなあ(^^)。その子、ラブベリもひなまつりもやりほうだいですね。私の子供のころに比べたら、うらやましい限りだ(^^)。
容認は、それほど、難しくないです。ポイントはコンセンサス、国民の承認がいるんですよ。
>直結しているというくらいだから、そういう「働きかけ」の実例を提示してくださいと何度も言っているのですが、ひな祭りに関しては一度も証拠が出て来ない。それはやっぱり、直結「していない」のではないかと考えざるを得ないです。
だから、「ひな祭り」をネタに、わけのわからない「啓蒙」をしてくれてることも「働きかけ」の一種です。その結果、国民に反発されたため、コンセンサスが硬直化してしまった。ジェンダーに冠する個別の問題の解決が、かえって難しくなりました。大迷惑です(^^)。
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