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>macskaさん:
>> しかし、「個々人の美意識とか内的な信条を問題にしているのではなくて、個々人の人生設計を大規模に規定している社会制度を問題にしているのだ」という主張が真であるならば、「男らしさ女らしさ」を問題に挙げるはずがありません。なぜなら、個々人の意識を離れた「らしさ」がありえるのかどうか、それを考えたらわかるはずです。
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>問題としているのは「らしさ」ではなく、「らしさの規範」ですよ。それはすなわち、個人のあり方ではなく制度を問題としているという意味にはなりませんか?
なりません。「らしさ」を色気とか美意識とかではなく規範だとしてもですよ、あなた、そうしたものが個人の意識を離れたところに存在してると思ってるの?
「酒らしい酒」というときの「これは、お酒!って感じの酒だな」というその「酒らしい」は、酒と呼ばれる液体の中にあるとでも思ってんの?しかもそういう「らしさ」ってのは制度じゃないですよ。男らしさ女らしさだって、いつ、制度になったのかね。
>「男女別の固定的な人生設計」といった言葉にした場合、人生設計上の大きな選択(主婦や主夫になるかどうか、子どもを作るかどうか、育児をどうするか、など)しか対象とならない点が問題だと思います。
それでいいでしょう。近代以降の経済の流れが、いわゆる「高度成長期モデル」と呼ばれる家族形態に結実した。それが、もはや昔日のものになろうとしていくなかで、さぁどうするんだという話でしょう。
「お父さんお母さんがそうしてきたように自分もそういう家族を作りたい」と思う人もいれば、「お父さんのように毎日毎日、会社と家の往復だけの人生は嫌だ」「お母さんのように毎日ただ家のことだけに負われる生き方は嫌だ」と思う人もいる。だけど、どっちがいいとかなんていう内心に踏み込むようなことは触れなくていいんですよ。
だけど「専業主婦はアンペイドワークによって差別されきたんだ!」あたりの政治思想によって、人々の従来の家族観を差別じゃの何じゃの言えば、そりゃ個人の内心のありようを土足で踏みつけるようなもんだわいね。
>それより小さな日常生活上のことでも「男らしさ・女らしさ」の規範に従わないといろいろと不利な扱いを受けることがあり得るわけで、「人生設計」だけに限って差別的な制度の是正を訴える理由がないと思います。
だから「不利な扱いを受けること」を「差別だ!」と訴えるのは自由ですけど、それを訴えるということは「個々人の美意識とか内的な信条を問題にしているのではない」とは言えない、それが言いたいのであれば「個人の意識の中の差別意識があることを訴える」ということ。
というか、「男らしい・女らしい」というのは形容詞。その人の、ある場面での様子が形容されているんですよ。それは一種の美的評価なんだから、それ自体が規範ではないのです。「男らしくしろ・女らしくしろ」と命令形の動詞語尾をつけて初めて「従う・従わない」になるわけね。だから形容詞の段階から問題にあげるなら、そりゃ美意識を問題にすることでしかないわけですよ。
まぁ、でもこの辺は差別意識(蔑視などね)との関連で言えば、すごく難しいとは思っていますよ。人々の美意識ゆえに大規模な差別が起ったことは、あるんですもん。中世の「清目(きよめ)」が近世の「穢多(えた)」に転落していく経緯は、まさに人々の美意識の変化と深い関わりがある(でも美意識の変化が原因、ということではないですよ)。
だから私は、教条的に「個人の意識を問題にするな!」と言ってるんじゃないんだ、そこは誤解しないでね。でも「看板に偽りあり、ではいかんよ」ということです。
(続く)
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