| |
>macskaさん:
続きです。
>> しかし、男女共同参画社会と銘打たれた教育や啓発で、特定の男女観「男らしさ女らしさではなく」を生きる人たちが称揚されたり、「男らしさ女らしさに縛られないように」とか「男らしさ女らしさを押し付けないように」と指導されたりするのはおかしい。
>
>それには完全に同意します。
そこには同意してても反ジェンフリには同意できない、あたりですか。
>ていうか、わたしがそんな啓発を支持するとでも思いましたか? そんなバカな。
macskaさんの反反ジェンフリは、丸山真男の反反共みたいなもんかな、とも思っていますけどね。丸山は積極的に共産主義を支持したつもりではなかったそうですが、彼にとって「共産主義は見えざるファッショを炙り出すものだ。だから、反共というのは炙り出されて出てきた純然たるファッショなので、僕は反共に反対する」とか何とか言ってたらしいです。あくまで容共と反反共とは自分の中では異なるものだったとか。
ただし丸山自身の中では、自分自身の思想信条と共産主義とに明確な線が引かれていたにしても、外に表われる言動としては限りなく容共になっていった、と『丸山真男』(水谷 三公)で読みました(このあたり、記憶で書いてるんで必ずしも正確な引用ではありませんが)。
私が思うに、ファッショか共産主義かと言ったって、どっちにしろ全体主義なんですよね。そりゃ共産主義運動の基点が反ファッショにあったのなら、丸山の分析は正しかったろうけれど、共産主義が炙り出すのはそもそも既存の社会そのものなんだから、順番が逆なんだよね。炙り出されてきた中にファッショが混じることはあっても、炙り出されて出てくるものがみなファッショであるはずがなかったんですよ。
>> まったく「ジェンダーに中立な制度」になっていません。
>
>これは文字通り同意できません。なぜなら、現に特定の「男らしさ・女らしさ」が優遇されているときに「中立」の立場に立つことは、結局現在優遇されている層がそのまま優遇され続けるということになるからです。「中立な制度」を実現するための施策が一時的に「中立」よりも「これまで不利だった側を優遇」する形になることはありえます。
まぁ理屈としてはわかりますよ。過渡的措置としてなんだということですよね。目指すは完成形の「ジェンダーに中立な制度」。でもそれを日本でやっても、ジェンダーの中身が様変わりするだけのことなんですよ。バイブルやコーランのある社会の、男女の規範意識とはわけが違うんです。もっとつかみどころのない融通無碍な、それでいてしっかりと目には浮かぶような、鵺のようなものです。
「男らしさ女らしさ」という(この言葉が公的に称揚された、おそらく近代以来の)旧来の男女の美意識がですね、ある部分ではそっくり名を変えて残ったり、ある部分では名を失って隠微な感じになったりしながら、多くの部分では新しい美意識が公私ともに支配的になって主流となるだけです。
もし教育行政などの公的な機関が、どのような男女観をも権威化することなく「ジェンダーに中立な制度」を目指すなら、過渡的にせよ「公的に支配的な男女観」の権威化を行ってはならなかったんです。ところがところがやっちまった。そのように行って見せるということで、日本人にとって「あぁ、それはお上が決めることなのか」という新たな認識が生まれる。一度その行いが定着すれば、今度はその「お上の立場」の奪い合いが始まるだけのこと。
で、それはもう、はじまっちゃいましたね。日本文化に無理解な西洋かぶれの馬鹿どもが、しかも生噛りのジェンダー論でもってしでかしたことなのです。むしろすべきは逆の方向である教育の自由化だったのです。画一的な教育行政の中に観念だけの多様主義を持ち込んでも、多様主義を標榜する言動それ自体が画一的になってしまうことに、何で気付かなかったのか。
それは結局「同じ穴の狢」ということなんですよ、純子さんの言うように。
http://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=one;no=761;id=keya1984
>わたしは必ずしもジェンダーの規範の問題においてそうするべきだと主張するわけではありませんが、論理の問題として「中立」を実現するための施策が「中立」ではなくても容認されることもあるという点は指摘しておきます。具体的にどういう施策なら容認されるべきかというのは難しいところであり、個別に議論すべきでしょうが、必ず「中立」でなければならないという事には同意しません。
うん、ここはね、同意見ですよ。ひとまずこのお題をはなれて、差別是正の一般論として。
>> 「ジェンダーに中立な制度」を謳い、それを政府と国民の責務だと規定する国法や条例が、その掲げてある理念とは裏腹に「個々人の意識を問題化し、特定の男女観に有利に働きかける制度になっている」という指摘が、まさに雛祭り騒動に象徴される問題に直結するんだ。それが根拠ですよ。
>
>直結しているというくらいだから、そういう「働きかけ」の実例を提示してくださいと何度も言っているのですが、ひな祭りに関しては一度も証拠が出て来ない。それはやっぱり、直結「していない」のではないかと考えざるを得ないです。
雛祭りそのものについてはこれまで三例出てましたね。いいですか?「証拠が出ていない」と「私はそれを証拠とは認めない」とは違うんです。あなたが認めようが認めまいが、あるものはあるんだ。あなたがそれを認めなかった(存在するものを存在しないと強弁した)という事績も残るんだ。その事績の評価も他人の中にあるのであって、あなたの中にその評価はないんですよ。いい大人なんだから、自他の区別はつけましょうね。
「大日本帝国が実存だと言うなら、僕は戦後民主主義の虚妄に賭ける」とは丸山真男の弁。先年、左翼学者だった父にこの言葉を伝えると、父は「えっ!?丸山先生が??」と絶句して、ややあって「そうか。丸山先生は、虚妄、と仰ったか・・・」と感慨深げにつぶやいていました。
「社会のジェンダーが実存だと言うなら、わたしはフェミニズムの虚妄に賭ける」とmacskaさんは言うかな?言わんだろうな(笑)
|
|