| |
>macskaさん:
>> 「らしさ」を色気とか美意識とかではなく規範だとしてもですよ、あなた、そうしたものが個人の意識を離れたところに存在してると思ってるの?
>
>それを言うなら、高度成長期モデルの家族形態だって個人の意識から離れたところに存在しているわけではないでしょう。
そうですよ。個人のありよう、個人の意識の持ち方と深いかかわりは、どっちにしろあるじゃないですか。しかし論じ方によっては、それを回避もできるわけでしょう。
高度成長期モデルの家族形態のみを基盤にした行財政や産業構造が維持できるのかどうなのか?という政策論議においては、高度成長期モデルの家族形態に性差別があってどのこのいう話は無用なんだから、個人の意識を問題にしていない、と言えるんでしょ?
もちろんその話を「そういった家族観は女性差別になっていてどのこの」と論じたければ論じるのは自由でしょうけど、そういう論じ方をするなら、「個人の意識は問題にしていない」とは言えないじゃないですか。もしそこで個々人の「家族観」の可否ではなく、
>家族や労働の形態というのは個人の意識とは繋がっているけれど、特定の意識のあり方に基づく形態を優遇したり差別したりしない、というのが大原則であるはずです。
このような立場から、「近代以降の経済の流れが高度成長期モデルの家族形態に結実し、それを基盤とした社会制度になっていたが、この制度は、そのような家族形態を営めない人々を社会的に疎外してしまう制度になっていた。それは制度上の差別とは言えないか?」と問い、「この制度上の差別は、個人意識レベルの差別意識の集積ではないので、個人の意識を問うものではない」と説くなら、「個人の意識は問題にしていないんだ」というのは真であると私は思う。(この論じ方から発せられる見解そのものへは、賛否は細部にわたっていろいろあるけれども。)
ところが「らしさ」という、制度ではない美意識あるいは規範意識そのものを問題視するなら、そのような論じ方をしておいて「個人の意識は問題にしていないんだ」は大嘘ということです。大いに問題にしているんじゃないか(苦笑)
これより下の部分は、言語と思惟・行動の関わりを述べたもので、名詞中心の欧米語圏での観念論を、形容詞・動詞中心の日本文化の行動様式に当てはめることの齟齬を語ろうとしたけど、アメリカ人には無理なようなので割愛。
|
|