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芥屋さん:
> 日本語の通常の受け止め方としては「男らしさ女らしさでは
> なく自分らしくしましょう」と言った場合、これまであった
> 男や女についての、観念化された美意識内容を放棄するよう
> 要望していることになるわけだし、多くのこの言説は実際に
> そのような内容です。
要望というか、呼びかけでしょ。呼びかけは自由ですよ。
わたしはそんな呼びかけを行なったりはしませんが。
> macskaさんなりに注意をはらって「男らしさ女らしさの規範
> を問題にする」という表現をされたのは、この美意識が規範
> 化する局面を言いたいのであろうけれども、上記のどの段階
> をどのように問題にしているのか、やはり日本語としては漫
> 然としていて大変にわかりにくい、非論理的な印象論なんで
> すよ。
わたしは一貫して4の段階が何らかの圧迫を伴う場合のみを批判していますが何か。
圧迫というのは、もちろん文字通りの命令だけではない。というか、何の権力も暴力も持たない人が口先で命令するよりも、権力を持つ人の無言の圧力の方がよっぽど圧迫になるということがあり得ますから、文字通りの命令にこだわる必要はない。権力による命令のほかにも、経済的な圧迫、規範としての圧迫、アーキテクチャによる制約などがあり、それらが一律に禁止されるべきだとは思いませんが、その中のある部分については政策による介入の対象としてもおかしくない。どのような介入なら認めるのかは別の議論になりますが、「人々の内面には立ち入らない」が原則です。
ところでわたしは思うんですが、そんなにわたしのことをアメリカニズムだと言うのであれば、行政が人権啓発事業を行なうのは非常に日本的だとは思いませんか? アメリカ的なやり方は、雇用・住居差別禁止とかの法律をズバッと作ってしまい、あとは法廷に任せるというもので、わたしはそれを支持しているのですが、日本の人権行政はそういうズバッというやり方はしていません。男女共同参画やその他の人権行政が、共同体主義的な啓発的アプローチを続けたために、脱共同体化・アメリカ化した現代の日本人が「ウザイ」と反発するようになってきたという側面はないでしょうか。
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