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お久しぶりでございます。
だいぶん以前にしまへびさんが「いつかTとDで優勝争いを」と書いてくれてたなー、としばらくぶりに覗いてみるとえらいことになっちゃってました。
「絶対に勝て!!!」の強い気持ちで応援したいと思っています。
ところで、現在進行中の話題ですが、しっかりとは追いかけていないのですが、もしかしたら参考になるかも、、、と思いますので、私がアウロラ板に書き込んだものと、それに対するMacskaさんのレスを載せてみます。
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ふむふむ・いろいろ
投稿日 2004年1月31日(土)13時58分 投稿者 エビカニ delete
いやー、やっぱしわからんことは素直に尋ねてみるもんです。
読後の第一感は、同じことの繰り返しだ(怒)だったんですが、だんだんと理解できたというか、見えてきた感じです。
まずはMacskaさんに確認です。
>どこに持ち込むのだと言われても、「社会に持ち込む」に決まっているじゃないですか。
>社会に持ち込むというのは、コミュニケーションに異質なものを割り込ませて、軋轢を起こすことです。
Macskaさんの理想とする社会は、選択肢の多い社会ですよね。
その社会の実現のために積極的・能動的にMacskaさんが行動するのは、引用にある軋轢を起こす段階まで、という理解でよろしいでしょうか?
今まで「男らしさ・女らしさ」について考えてもみなかった人々が、「えーと、男らしさ・女らしさっていうのは、・・・う〜ん」と考え始めればそれは必然的に十人十色の「男らしさ・女らしさ」となります。
最初は似たり寄ったりの「男らしさ・女らしさ」でしょうが、いずれ様々なバリエーションが生まれてくることが予想されます。そんな状態をMacskaさんは、しめしめとほくそ笑みながら眺めている、という理解でよろしいでしょうか?
さらに手を緩めずに軋轢を起こし、考え続けてもらっているとバリエーションを増やした「男らしさ・女らしさ」に対応して社会の制度も変化し、多様な選択肢を持つ社会になっていくことでしょう。Macskaさんは、そんな社会が実現したことを見届けて「ヨッシャー」と小さくガッツポーズすることを夢見ている、という理解でよろしいでしょうか?
私は以前、とある板に「フェミニズムは、エッセイとしてなら高く評価できる」と書いたことがあります。それは、新しい視点を提供してくれたフェミニズムに対して、敬意を表したものです。
上記の解釈が正しいならば、私は軋轢を起こすことに協力する気はありませんが、「男らしさ・女らしさ」に関しては、Macskaさんに頑張って下さいという気分です。
ところで、上記の解釈とは異なる(Macskaさんから見れば誤解でしょうが)誤解とはいえない別の解釈も成立すると思います。
理想とする多くの選択肢を持つ社会の成立そのものを、積極的・能動的に社会に対して働きかけようとしている、という解釈です。その社会が仮に実現されたとすると、人々の需要に関係なく多くの選択肢がつり下がっている社会というイメージになります。
※ここで「理想論・効率を無視」という批判が出ます。
そして、そのための手段が様々な価値観を社会へ持ち込むことだという。
「社会のありようを問題にしているのであって、個人の生き方など問題にしていない」と言われても、価値観を持つのは社会ではなく、その社会に住む一人一人の人間だろ、と思います。
(言ってもいないことを勝手に…がこの辺りですね)
つまり、様々な価値観を社会に持ち込むということは、「あなたにはあれ、そなたにはそれ、こなたにはこれ」と一人一人に異なる価値観を配って廻るイメージになります。これは、価値観の押し付けに他なりません。
※ここで「価値観の押し付けを拒否している人が、他者へは価値観を押し付けている、
バカフェミと同じではないか」という批判が出ます。
アンチ板の議論が、前へ動き出すことをお祈りいたします。
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軋轢
投稿日 2004年2月1日(日)01時53分 投稿者 Macska delete
エビカニさん:
> Macskaさんの理想とする社会は、選択肢の多い社会ですよね。
> その社会の実現のために積極的・能動的にMacskaさんが行動するのは、
> 引用にある軋轢を起こす段階まで、という理解でよろしいでしょうか?
えっと、軋轢を起こしたら、その後始末というかフォローアップも必要じゃないですか。
放っておいたら、わたしの方が「変人」として排除もしくは例外規定されるだけですから。
例外規定って分かりますか?
例えば、わたしはむかし「トランスジェンダー」という言葉が、
男から女になったり、女から男になるというだけじゃなくて、
既存の性役割にとらわれずに自分の生きたいように生きるという意味でも使える事を知って、
それは素晴らしいと思ってトランスジェンダーを自称したことがあります。
90年代の中盤までは、アメリカでもトランスジェンダーという概念自体が珍しかったので、
それを自称するだけで軋轢が起きました。 でも、次第に世間が慣れてくると、
「なるほど、あなたはわれわれ一般人とは違ったトランスジェンダーという存在なのですね」
みたいになってしまって、それなりに居場所が出来る代わりに、軋轢は起きなくなる。
居場所を求める運動だって確かに必要だし、
おかげでトランスジェンダーの地位が向上したのは事実なんですが、
わたしが求めているものとは何か違うわけです。
このように、「お約束ごと」に従わない現象があると、
世間は「犯罪者」「精神病者」「変人」「トランスジェンダー」のように例外規定をもうけることによって、
「それらはわたしたち一般人とは無関係のこと」と決めつけます。
そうすることで、「お約束は悪くない」と安心できるわけですね。
ですから、「お約束ごと」を変えるには、そしてそれを前提とした社会制度を変えるには、
「わたしたち一般人」という思い込みを打破しなくちゃいけませんね。
そのために、いらぬ軋轢を日々起こそうというのがわたしの考えです。
当然、「わたしたち女性」なんて言っている旧フェミニズムも打破します。
上のトランスジェンダーの例と同じで、フェミニズム内部で軋轢を起こすために
「第三波フェミニズム」を自称した時期があったのですが、今では「第三波フェミニズム」という言葉が
「若い女の子が母親世代に反抗している」的に陳腐化してしまったので、
あえてポストフェミニズムという、大半のフェミニストが嫌う言葉を使ったりしてます。
> Macskaさんは、そんな社会が実現したことを見届けて
> 「ヨッシャー」と小さくガッツポーズすることを夢見ている、
> という理解でよろしいでしょうか?
あー、というか、もしそういう社会が実現したら望ましいとだと思いますが、
何か理想の社会を夢見るというよりは、今の社会の居心地が悪いし、
納得いかないことが多いから、もっと居心地がいい社会にしたいという意識の方が強いです。
> 理想とする多くの選択肢を持つ社会の成立そのものを、積極的・能動的に社会に対して
> 働きかけようとしている、という解釈です。
> その社会が仮に実現されたとすると、人々の需要に関係なく
> 多くの選択肢がつり下がっている社会というイメージになります。
ええとですね、現実問題として、そういう順序だと失敗するのが目に見えているわけですが、
政治的要求としてあえて「効率を無視」してそういう主張をすることは有り得ると思いますよ。
というのも、そういう主張が、リベラリズムの考え方と互換性が高いからです。
リベラルな社会というのは、無駄だらけです。
百姓の子どもは百姓、商人の子どもは商人、というような社会であれば、
全員に同じ学校教育を与えるなんて無駄なことはせずに、
それぞれの職業や共同体参加に必要な知識や技術を取得させればそれで良いという事になります。
自由社会というのは、そうした効率の良さを否定してでも、共通のスタートラインを提供する社会です。
もちろん、技術や社会構造の変化があるので昔の通りにやろうとしても通用しないわけですが、それは別の話。
ある子どもが特定の方向に伸びるかどうかは、取りあえずある程度の教育を全員に与えなければ選別できない。
それは、機会平等のために効率を犠牲にするということであり、それが許容されるのであれば、
ジェンダー間における機会平等のために同様の措置を取ってもいいという主張は成り立ちます。
一方、「制度としての『お約束ごと』を相対化するために世間と軋轢を起こし続ける」ということは、
あんまり表立って言いやすい主張ではありません。 言いにくい事だからこそ軋轢になるわけで、それは当たり前。
じっくり聞いてくれない相手だと、いろいろ誤解を受けることもあるでしょう。
そもそも、大半の活動家は「自分の行動が他人に迷惑である」ということをあんまり考えないモノで、
「迷惑である」ことを認識した上で、わざともっと「迷惑」なことをやって
軋轢を起こそうだなんて考える不届きな活動家は、あんまりいないわけです(笑)
そうすると、とにかく需要がなくても選択肢を平等にせよ、
選択肢が先に提供されないと、需要があるかどうかすら分からないではないか、
という主張の方が、ずっと言いやすいのね。
(以下、別の人宛のレスのため略します)
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