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一連の議論を眺めて思ったのですが
これは、ジェンダーに対する見解の相違があるんですね。
要は、ジェンダーというものを、
1.女性や性的少数派を差別して、社会の下位に位置づけるために作られた抑圧のシステムであると考えるのか?(ジェンダーは基本的に悪)
2.それとも、自然な男女の性差(セックス)による互いの違いが、なるべく抑圧的にならないように、おたがいの利益を調整するために必要なシステムと考えるのか?(ジェンダーは基本的に善)
それから
1.の立場には過激派と穏健派があって
i.(過激派)ジェンダーというのは、抑圧のシステムだから全廃すべし。
ii.(穏健派)全廃が理想だが、自発的に抑圧者の立場に身を置く、マゾな人間は許されるべき。
という考え方になる。
2.の立場にも過激派と穏健派があって
iii.(穏健派)システムには制度疲労があったり、システムの策定者のものの見方が偏っている場合もあるから、システムの中でワリを食う女性や性的少数者からの意義申し立ては許されるべき。
iv.(過激派)ジェンダーというシステムは自然な性差(セックス)を基礎にして成立している完全なもので、意義申し立てをする人間は頭がおかしい。
つまり、macskaさんはii,芥屋さんや私はiii.なのだが、根本的なところでジェンダー観がズレているから、互いに深いところで議論を始めるとおたがいにi.iv.に見えてしまうわけですね。ここまで譲歩してやっているのにわからずやめという話になる。
特に、「再生産」に関しては意見が割れる。
ii.の立場に立てば、個人的なマゾヒストが勝手にジェンダーという抑圧を引き受けるのはいいが、その抑圧を次の世代に「再生産」することは「差別」だから許されない。特に教育などは抑圧の「再生産」だから、ジェンダーを教える教育はすべて「差別教育」ということになる。
iii.の立場に立てば、システムの維持のためには「再生産」は必要で、「再生産」過程で差別につながる不都合を改訂すればいいだけという話になる。逆に「再生産」そのものを否定する意見は、システムの崩壊を招く恐れがあるため、それは「文化大革命」だという話になる。
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