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>macskaさん:
>いや、だからさ、「男らしさ・女らしさ」の基準が雇用や出世に影響する可能性と、「好きな野球のチーム」がそれに影響する可能性とでは、話にならないくらい違うでしょうが。
んなこたぁないですよ。男らしくも何ともなくたって業績が良かったり人脈作るがうまかったりすれば、普通は出世します。男らしさの片鱗もない上役なんていくらでもいるでしょう。ある上司が、ある「気に食わない部下」に対して「あいつは野球の話題もできない」とか「何だあいつは。地元の球団をみんなで応援して盛り上がってるときに別のチームの応援しやがって」という眼差しで見ることがあるとします。そういう見られ方によって出世に響いちゃったりするケースが「全くない、とは言えないんじゃないの?」という程度には、「何だ、男らしくないな」という評価が影響する可能性を排除できないでしょうけど、社会の指導的立場にある人々がそんなに男らしく女らしいかどうか、見てみりゃわかるでしょう。
それと、男とスカートについて。男向けの仕様のスカートというものが、現在の(いわゆる欧米化したライフスタイルの)社会には現存していないでしょう? 古代ギリシャ人の男の身に着けてるものなんて、ありゃミニスカでしょう、形状から言えば。服飾の歴史を広く見れば、「下半身に身に着ける、末広がりのヒラヒラした服」が男の服装であった時代も地域も多いです。そこから考えるべきでしょうね。現在の「スカート」と呼ばれているアレは、とにかく女向けにデザインされているものです。それを普通のルックスの男がいきなり身に付けたら異様な感じになっても仕方ないんですよ。だから、場をわきまえろ、と言われるのは当然です。話を逸らしてなんかいません。
逆にズボンを女が身に着けたら?これは服飾史の話題によく出る例ですけど、最初は社会的に反発と好感と両方あったようですね。でも異様な感じ…ではないんです。女がいくらでも着こなせるものなんですよ。男が着こなすのが極めて困難な服を、職場で着たら「やめんか」と言われても仕方ないのであって、その反応を「差別だ!」というのは誤り。これは服飾革命でもやるしかなく(笑)、人々が「あ!カッコいい!」「素敵♪」という男向け(あるいはユニセクシュアル)な服飾の登場を待つべきですね。
さもなくて、いきなり自分のセクシュアリティの自己表現だ!職場のみんな!わかって!というのは、そりゃ言って悪いとは思いませんが、その職場のみんな…まして取引先とか窓口に来るお客さんとか、いろ〜んな人に性急に求めすぎだ。それは、かな〜り身勝手だ。身勝手だけども、周りの人の好意によって受け止めてもらえてなんぼの話だということくらい、十二分に自覚しておくべきです。言って当然だ、認められて当然だ、認められなかったら差別だ、などというのでは叱られて当然です。職場は、何をするところですか。
しかし、場によらず女装そのものが白眼視されることは差別的じゃないの?と言われたら、私自身はそれに半ば肯定的です。職場以外のプライベートな場において、女装したって何が悪いか、と思うのですが、これまた現実の服飾のあり方と深い関連があるので、異様に感じて「変態!けしからん!」と感じる人を一概には責める気もないです。江戸の頃の衣服の取替えなんか、ありゃぁ艶やかなもんですよ、でもあれは、あの服だから。男物と女物が分かれていないわけじゃないんです、だから男が女装し女が男装しているというのがわかる。でも異様ではないんですね。そうすっと、現代の「スカート、とは何ぞや?」となる。
こういった方面になると、おそらく日本では伝統主義者(?)のほうが、理解も共感も早いと思う。何たって、男装して勇み立ち雄叫びをあげる天照大神に、女装して舞い敵将と寝所をともにするヤマトタケルの国ですもん。トランスの艶やかさに断固拒絶的な文化ではないですから。もちろん、だからといってセクマイに対して差別がないのではない。この辺は、落ち着いてじっくりやるべきだと思います。
で、大峰山の女人結界については、私は神道者として「女人不浄」という俗信を否定しておりますので、批判的です。しかしそれは信教の問題になるので、大峰山当局には何とかして考えてほしいけれども、純子さんの言うように、「月山の女人結界を、女性信者とお寺さんとお宮さんが話し合って解決した先例」に見習うべきだと思います。これ、江戸時代から本居宣長が言ってきたことで、根の深い問題なんですが、イダたちはヴァカすぎて、かえって頑なにさせちゃったじゃないの。macskaさんも同感だと思いますが。
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