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>なるほど、しかしそれはわたしの戦略とはかなり違います。わたしの定義に代わる新たな定義も必要になると思いますが、何か原案はあるでしょうか?
私は(狭義の)運動戦略といったことはわかりかねるし距離を置いているので、もしも既述のとおりのリスクを覚悟で、なおかつ現在の問題提起を維持するのであれば、こう考えます。まず、あの定義は維持すべきです。これは制度改革論としての差別論として。もう一つは、制度未満の差別意識に関する表現方法を模索されることではなかろうか、と。
そこで、職場の話が出ました。ここで、日本人の「仕事」に関する強烈な意識の持ちように目を向けてはいかがでしょうか。そして、ホンネとタテマエの社会であるということ。それを具体的に言いましょう。
日本人は「仕事の場」について、「仕事の出来不出来をこそ見るべきだ」「仕事の出来ないやつが色をつけられて引き立てられるのは納得いかん」という意識が強烈に強い。しかしこの意識はタテマエとしての意識化された強烈さです。ホンネでは、必ずしもそうはならないが、これは意識レベルでは抑圧されています。
そういう場であるからこそ、片方では「男らしさ女らしさ」を評価の基準にしないという気風を生む。「男らしさ」と「仕事が出来る」とは、たまたま一致することもあるけど本来は別の評価です。仕事が出来れば男らしくなくてもいいんですよ、職場ではね。すると、ここで「いや、ちょっと待って。男の人はそうだったかもしれないけど、女の扱われ方はそうだった?」と思われるでしょう。そのとおりです。ここがホンネの出ていたところですね。「若くて可愛い女の子だったらいんだよ。職場の花だからネ」というヒヒオヤヂ的な感覚ですね。
ところが、まがいなりにも女性運動の実ったケースの最大の理由が、「職場って、そういうところじゃないでしょう?」という訴え方だったわけです。「仕事の出来不出来じゃなかったの?仕事は花を競い色気で判断するものなの?」「女は仕事ができないの?仕事が出来ないから花なの?」「で、花を競い出世するコースがあったの?飾り物でしかないでしょ?」というようなもの。これはね、タテマエを重視する社会で、強烈かつ抗弁できない訴えだったわけです。
すると、「職場はお洒落を競い、お洒落で自己主張するところじゃないだろ」という規範意識は強化されているわけですよ。そこにセクマイの訴えの利害とは、必ずしも既存の女性運動の利害とが一致しない大きな溝が出てくるんじゃないでしょうか。macskaさん一人にどうこうできる話ではないんですが、少なくとも日本では「らしさの規範」という問題提起は、完全に誤爆です。
男らしさであれ女らしさであれ、日本人の心情に最も共通して訴えかける美意識があるとすれば、それは「筋が通らないことを、醜いと思う」ことです。でも世の中、筋の通らぬことは多いわけで、男らしく女らしくあろうとする人は、しばしば筋を通して世に逆らうことになる。アウトロー化しやすい美意識なんだ。それを爆撃したフェミさんたちは…
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