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>ナナコ
>何か酷い言われような気がするのですが。
それは仕方がありません。
>母性とか知性とか、いまいちピンと来ないのですが、私にはどうしても必要なことでした。
自分にとってどうしても必要なことが分かるのが私の語法では「知性」です。なぜならそれは「己を知る」という決して簡単ではない精神的行為だからです。無知の知、という偉い人の言葉も「己を知る」の一つでしょう。
集中と散逸が同居して落ち着くことを知らぬ「あの」ナナコが----それが創造性の源でもあったりするのでやっかいですが----手間ひまかけた上に「待つ」ことが絶対不可欠な営為を自ら選んだ。それが直観的であればあるだけ、借り物でない知性の働きを私は感じます。
まあ、知性云々は私の語法だから気にせんといて下さい。
>>子供に関する限り、少々の貧しさなんてどうってことはないのですね。それより、そのことに対する親を含めた周囲の眼差し・意味づけの方が重要なわけで。
>もう少し、詳しく聞きたいです。
ごめんなさい、ナナコは早わかりだからつい省略してしまいました。
言わんとするのは、「多少の経済的な貧しさがイコール不幸だとは、全く考えていない」というナナコの言葉と同じことです。固定的な意味づけにまだ囚われていない子供ならなおさらでしょう。自分ちの不幸を「みんなビンボのせいや」というのが『チューリップのアップリケ』(岡林信康)という歌の女の子ですが、そういう意味づけは唯物思考を学んだ大人のものであって、子供がそんな社会決定論的に考えるわけがない。「貧しさ」を「障碍」に置き換えても同じです。一方で、様々な欠落が「貧困によって密接に繋がっている」というナナコの指摘もその通りで、そのレベルのことを私は「貧困は社会的な問題」と言いました。要はマクロとミクロの違いです。
学歴社会を批判してきた論者が自分の子に「学歴で人を判断してはならない」と言い聞かせて育てたところ、その子は成長して「○○校なんかに行く奴らはゴミだ」などと言うようになってしまった、という話があります。親の欺瞞を子供は見抜く。伝わるのは取り繕った「ことば」ではなく、そこにまとわりついている行為や姿勢や表情です。そうした事情を「親を含めた周囲の眼差し・意味づけ」と書きましたが、伝えたいことは意識的に「伝える」ことはできず、伝えたくないこともろとも単に「伝わってしまう」ものなのでしょうね。
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