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こんにちは。
>私の認知環境においては、「実在」の概念に科学的なものと宗教的なものとの区別はありません
それならば仕方ありませんね。私からみるとラクシュンさんの「在る」の幅が狭いように見えますが、そこは「認知」の違いと同時に「語法」の違いもあるのでしょう。
私は科学的な実在は「在る」ということの一部にすぎないと思っています。私が「美しい女」を見るとき、物理的実在としての女に「美しい」がかぶさって、分かち難く一体化しています。このとき、「美」と「女」は全く違う在り方で「在る」、というのが私の認知であり語法です。
数学的概念、たとえば虚数(irrational number)は「在る」かどうか。いわゆる純粋数学者ほどその存在をありありと感じる傾向が強く、応用数学者や工学者や経済学者など数学を道具として使用する人ほど単なる論理上の操作概念に過ぎないと言う傾向が強いそうです(『数学セミナー』という雑誌にその論争が紹介されていました)。
「美しい」と「虚数」とは性格が異なりますが、共通するのは、その存在性格が普遍妥当的ではなく、誰でも所定の手続きを踏めば確認できるものではないという点です。にもかかわらず、それをありありと感じる人にとっては在るのですね。あそこ、とか、ここ、とかの実在の棲み処ではないところに。
>ゴミの不法投棄が横行する場所に、神社の鳥居のミニチュアを設置するだけで、不法投棄の殆どが無くなってしまうらしいのですが、この現象をJosefさんはどう考えるのでしょうか。
>私は、神の祟りを恐れてのことだと判断しています。
>そこで、この仮説から出てくる予測としては、そんな鳥居は神社の許可を得ずに勝手に作られたもの(=偽造?)であって(=神とは無関係)ということが知れ渡ってしまえば、不法投棄は元の水準に近づいていくだろう、というものです。
神であれ悪魔であれ祟りであれ、実在ではないから移ろうでしょう。美人は三日で飽きると言われる通り、美も移ろうし、能力の衰えた数学者はもはや虚数のありありとしたリアリズムを失っているでしょう。
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