| |
>ラクシュンさん:
>>ところでラクさんは、「実在」という言葉をどういう意味で用いています? 私なら「人間の五感で知覚できる存在」といった対象を想定します。
>私では、とにかくどこかに実際に在るという意味です。
そうですよね。どこかに在る、と。つまり空間的に限定されているわけで。でも「超越」した存在というのは、そのように限定された存在ではないわけでしょう。空間的には、「特にどことも言えない。あまねく全てのところに…」となるわけです。
キリスト教の全能の「主」、イスラム教のアッラー、儒教の天帝、加えれば仏教の阿弥陀仏も入るかな、とにかくそうした存在は、地上のどこその山にいらっしゃるとか、天空のどのあたりにおわしますとか、そういうものではないとされていますよね。それら空間的な限定は無しに、はるかに全的な存在だとされています。
>【実在】(哲)一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。
>
>【超越】(哲)イ、一般にある領域の外にあること。例えば、意識から独立な存在、世界の外にあるものとしての神についていう。
なるほど。お手元の辞書の出典はわかりませんが、宗教学との兼ね合いで見たほうがわかりやすいかもしれません。お役に立てるかどうか、私の浅学の知識でちょっと述べてみます。Josefさんのさりげないひとこと「超越でない神なら別ですが」がキーワードになると思います。
日本の神道で、もっとも古い形態を残していると言われている奈良の三輪山信仰をご存知でしょうか。日本各地にある神社の中で、この「大神(おおみわ)神社」の特異な点は、本殿が無いことです。普通の神社は拝殿の向こうに本殿があって、御神体がおさめられているのですが、大神神社の場合は、拝殿だけあって本殿が無い。御神体はというと、実は拝殿の奥にある三輪山そのものが御神体なのです。
ようするに、三輪山という自然物それ自体が神様なのですよ。こうした形態は北陸の白山信仰など少なからずありますが、ようするに「その山」「この川」「あの海」という、それ自体が神様。こうなると、これらの「神」は、「客観的に存在するもの」でしょう?「世界の外にあるもの」ではないですよね。
もちろん日本の神祇信仰の中には、観念神も人格神もあって混ざっているのですが。こうした例は、日本の神道だけでなく、世界各地にあります。いや、日本国内ですら、別系統でアイヌ神話にもみられます。鶴のタンチョウをアイヌ語で「シャロルンカムイ」と言います。「湿原の神」という意味。熊は「キムンカムイ(山におわす神)」。
>だから、神=実在、でしょう?
えぇ、三輪山それ自体が正体であるオホオモヌシや、湿原に羽ばたく鶴のシャロルンカムイは、実在しておりますよね…大和の国に、北海道に。これらの「神」と、天にまします主(ヤハウェー)やアッラーや天帝や阿弥陀仏などは、異なりますでしょう。
>>そこが、科学と衝突するタイプの「神」と異なるところです。「どこと言えば無限に」「いつと言えば永遠に」存在しているんだというのが、超越した存在としての絶対神というものだと、そういう意味で私は(Josefさんも?)考えております。
>だからと言うか、それだったらそんなものは無いということなんですよ。
えぇ、科学でね…同じダーウィニストの中でも、そこまで断言せねばならないんだというのがドーキンスの立場で、そこまで断言する必要は無いんだというのがグールドの立場だろうと思います。私は、グールド博士の良識も理解できるのですが、個人的には、ドーキンス博士の峻厳さが好きです。でも、人間の世俗社会というのは、グールド流の寛容こそ大切なものとするのであって、ドーキンス流の峻厳さは学問の中にとどめたほうが良いとも痛感するところですが。
|
|