| |
込み入ってきましたね。
【Jo】
>>神は超越だから、科学で証明も否定もできないのは当たり前なのでは?
>>(超越でない神なら別ですが)
>>かのパスカルは同時代のデカルトを「許すことができない」と非難しました。二人とも信仰者ですが、大きく違うのは、「心情に感じられる神」と言い、啓示を受けた個人的体験を熱烈に記すパスカルに対して、デカルトは神の存在証明を試みたということでしょう。前者からみれば、後者は神を「実在」の次元に引きずり下ろしたのです。
【ラク】
>こう書かれるとイマイチ理解し難いのですが、ドラエもんそっくりの宇宙外生命体が実在すると信じている人がいればその存在も「超越」ではないのですか?
【Jo】
>>いえ、何であれ「実在する」という以上は超越ではないでしょう。
【ラク】
>じゃあ神の実在を前提しない神=宗教などは、はじめからウソと切捨てられても 仕方がないですよね。
ところでラクさんは、「実在」という言葉をどういう意味で用いています? 私なら「人間の五感で知覚できる存在」といった対象を想定します。そのうえで、その延長として「人間の眼前にその存在を示すことはできないが、思惟によって擬似的に五感で捉えることが可能な存在」も加えて良いかと。
「超越」とは、五感で知覚できず思惟も及びつかないもの…したがって、火星にタコ型の火星人が実在すると信じるにせよ信じないにせよ、そこでいう火星人なるものは、何ものをも超越した存在というわけではありませんよね。火星という天体の地上に生息していて、地球の海に棲む蛸のような形をしていて、地球人なみの知能や思考力や持つんだということですから。
「ドラエもんそっくりの宇宙外生命体」も同様で、それが実在するんだと信じている人にとっては、四次元か何かの別次元の宇宙の、そこの某星雲の某天体に住んでいるということでしょうから、やはりその次元の宇宙の中のミクロな構成要素のひとつでこそあれ、その次元の宇宙の成り立ちそのものを超越した存在だというわけではない。まぁその「ドラエもんそっくりの宇宙外生命体」が、こちら三次元の宇宙を創始して今も某天体に内在して活動中だというんなら別ですが、そうなると、宇宙を超越しているのか構成物のひとつなのか、えらく矛盾した観念だと言えそうです。
私が見るに、たぶんJosefさんもそういう意味で「実在」と「超越」を分けていると思うのですが。それに対しラクさんが、
>ドラエもんそっくりの宇宙外生命体が実在すると信じている人がいればその存在も「超越」ではないのですか?
…と言われるとき、その「超越」というのは、ただ単に「観測不能な遠い惑星、そこの生物なんだという想像だけの存在」という意味で言われていませんか? 「何ら実証性の無い想像上の存在」…たとえば伝説上の怪人怪獣などもそうしたものですけど、これらとて、人間の脳の中で思惟によって擬似的に五感で知覚しているわけですし、地上の「どこか」で「いつか」に実在したんだということであって、すべてを超越した存在なんだということではないでしょう。
そこが、科学と衝突するタイプの「神」と異なるところです。「どこと言えば無限に」「いつと言えば永遠に」存在しているんだというのが、超越した存在としての絶対神というものだと、そういう意味で私は(Josefさんも?)考えております。「神」という言葉が指す範囲はいろいろな宗教や信仰によって様々ですが、科学と衝突するタイプの「神」というのは、森羅万象を生み出すものであります。
ですから、世界に起きることの全てを説明しうるものであり、なかんずく説明不能だとしてもそれは人間の能力の限界としての説明不能だということになります。そのことがまさに「神の御業(みわざ)に人智の及ばざる」を説くことになるという次第であって、思惟のかたちとしては説明可能も不可能も全て循環的に回収される性質がありますね。だから、こうした思惟の方式は科学と衝突せざるを得ない。それが、
【Jo】
>>科学とは神を前提せず、推論の過程に神を忍び込ませることもなく、要するに徹頭徹尾神抜きで理論・実験・検証を重ねていく営為です。その営為の中に誰かが神という項を介入させたなら、それは似非科学とされたり、場合によっては神という名で呼ばれたそのモノを科学的検証の対象とすることもあるでしょうが、ハナから科学とは関係ないところで信仰されている超越としての神は科学の関知するところではないでしょう。この、関知するところではない、という点を私は「証明も否定もできない」と表現しました。
というあたりでしょう。
|
|