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>パルメニデスは何も思弁を語っているわけではないと思うのですが、この立場が「形而上学的」ということになっているんですよね。不思議でしょ。
ややこしいですね。
体験に基づく知という点からは形而上学の反対のようですが、体験できるのは「有るもの」であって、「無いもの」は体験できないというところから、「無い」ということを拒絶し、全一的というか永遠的というか、一切がそこから生じそこへと回帰していくような「存在」を主張するあたりが形而上学的なのでしょう(たぶん)。
このような存在論からすれば、「存在するものでもあり、存在しないものでもある」のような思弁は言葉遊びに過ぎないのですね(たぶん)。
>「有るものは有り、有らぬものは有らぬ」
すごく当たり前のことを言っているように見えますが、この後半部は「有らぬ」ということの拒絶でしょうね。言い換えると、「存在しない」などということはありえない(=体験や知の対象になりえない)、と。
主語がないところがミソで、具体的な主語を立てれば、たとえばラクシュンさんという人物は、今は「有る」が100年後には「無い」。しかしパルメニデスの存在論はそういう形而下の存在の有無ではなく、「有る」そのもの、「無い」そのものに向かっていて、後者を否定するという形をとっているのだと思います。「無い」ものは知ることも思考することもできないと。
この、完全なる「存在」という表象が、プラトンの「イデア」なんかに繋がっていくのでしょう(たぶん)。
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