| |
>芥屋さん
>「マック」て・・・(元帥かと思ひましたw)
「Mac」には「元帥」という意味があるということなんでしょうね。
しかし元帥という言葉も死語なんでしょうかね…。
>ごめんなさい。今夜は、よりによって、ウォッカでイイ気分です。
ずいぶん洒落たものを飲んでるんですねぇ。w
しかし気になるので心当たりを調べてみましたが、ある本には
::::::::::::::::
ところで、このメタには、超越という意味もまたあることから、アリストテレスの哲学が権威とされてキリスト教神学の基礎付けに利用された中世ヨーロッパでは、メタフィシカということばが「超自然学」、つまり感覚ではとらえることができないものについての学問、という意味で使われるようになった。「形而上学」という言葉は、この意味をもつものとして、中国の古典『易経』に典拠を求めて造られた。「形而上学」という言葉は本来、形より上、つまり形をもたない超感覚的なものという意味である。
::::::::::::::::
で著者は、ヘーゲルを頂点とする「ドイツ古典哲学」(古典?)以前に(?)、ドイツで流行っていたのは、この意味での「形而上学」だ(←たぶん引用文の意味)、と言います。
が一方で、古代の弁証法家のヘラクレイトスは、万物のアルケー(原理)を火だとする弁用法的見解(←「火」「空気」「水」「土」間の弁証法的サイクル)を(プラトンにも見られるような)比喩的に表現したのが、
「河は同じだが、その中に入るものには、後から後から違った水が流れよってくる」。「同じ河に二度はいることはできない……またまた近寄ってきては、去っていく」。「ヘラクレイトスはどこかで、万物は動いていて、何ものも止まってはいない、と言い、また有るものどもを河の流れになぞらえて、君は2度と同じ河へは入れないだろう、と言っている」。「同じ河にわれわれは入っていくものであり、入っていかないものでもある。存在するものでもあり、存在しないものでもある」…と。
そして、このヘラクレイトスによって完成された「古代弁証法」の論理的脆弱性をつく立場が「形而上学的」と位置付けられています。
その代表格がエレア派のパルメニデスです。
彼の有名な主張は、「有るものは有り、有らぬものは有らぬ」(←何処か親しみのある主張w)、というものです。
パルメニデスは言います
「いざや、私は汝に語ろう、汝はその話を聞きて受け入れよ−−探求の道は如何なるものだけが考え得るかを。その一つは“それは有る、そしてそれにとりて有らぬことは不可能だ”と説くもの、これは説得の道だ(真理にしたがうものゆえ)、他の一つは“それは有らぬ、そして有らぬことが必然だ”と説くもの。これは汝に告げるが、全く探求し得られない道だ、何故なら汝は有らぬものを知ることもできなければ(それは偽し能わぬことゆえ)、また言い現すこともできないだろうから」。
パルメニデスは何も思弁を語っているわけではないと思うのですが、この立場が「形而上学的」ということになっているんですよね。不思議でしょ。
私の引っ掛かりの根源はこの辺にあるんだと思いますけど。
こういう記述が私のどこかに刷り込まれているんでしょうかね。
あとフロイトやラカンおよびマルクス、ドゥルーズの理説が「形而上学」だという話を聞かないということが私の疑問の補強材料としてあるかもしれません。
#フロイトは自説を思弁だと認めている模様。
|
|