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>だとすれば「不幸自慢」みたいなものだろうか。不幸な方がエライと。それに耐えられない奴はダメと。
>重心は「理不尽への耐性=エラさ比べ」に移っていて、理不尽自体への告発は雲散している。それどころか、理不尽があってこそ、その犠牲者としての不幸自慢ができるわけだから、理不尽があってくれなきゃ自慢も自己肯定も他者への罵倒もできゃしない。
最初ほ方を見ていないので想像するしかないのですが、作者としては(自分が書いた)劇中で展開されているリストラ夫の態度そのものが鼻について(別種の理不尽?)仕方がなかったのでしょう(どんな態度だったか気がかり)。きっちりと専業主婦時代の妻の役目(正式な理不尽)を果たしてほしかったのだと思います。そのためには理不尽を告発しながらどこかで肯定する必要があった。 写真家の事件は夫を間接的に批判するための小道具です。 妻<弟子 を 妻>弟子に偽装したのも正式の理不尽を高く見せかける手段。
だから「主婦への理不尽を肯定」というのは理不尽のあつかいが微妙なところに偽装工作のツケまで回ってきますからね。あなーんだ、もっとヤッテいいんだみたいな。
あと、署長の理屈は、自分が振るう暴力の破壊力から弟子のダメージを批判するというトンチンカンな話になってんじゃないのということ。自分は例外ではいられないと思うから。
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