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>Josefさん:
>やっぱり店の主人が登場すると、なんていうか、「眺め」が全然違いますね。主人不在でも客同士勝手にやってりゃいいようなもんだけど、何か肝腎なものが足らないという感じが抜けないし、それで何となく足が遠のいてしまう。
すすすすいません。もとからの遅筆に、さらに拍車がかかっておりまして…
>さて、「お決まり、定番」を楽しむという点では日本も西洋もさほど違いはないんじゃないかなと思います。オペラなんて、同じストーリーを役者(歌手)を変え細部をちょっと変えて繰り返し繰り返し上演されてきたのだし、観衆はその「異曲」の部分を楽しんできた。楽しんでいる時はいっとき日常から解放されているわけで、解放されるためにそういう物語がある。とすれば「リアル」は楽しみの邪魔なのでしょう。
そう言えばそうですね。とすると、上で展開されている話題…シュールレアリスムあたりのこととも関連するのでしょうが、従来の貴族的な伝統芸能である「芸術」に対するアンチから発生しているのが現代西洋の大衆文化、ということになるのかな。それに対して、従来の伝統芸能がそもそも大衆文化であるので、その延長線上にある現代日本の大衆文化、と思えてきます。
>といっても日常とまったく無関係でも味気ない。日頃の不満や鬱積、あるいは叶えられない欲望を単に忘れさせてくれるのではなく晴らしてくれたり満たしてくれたりする虚構がいちばん求められるのだと思います。その「晴らす、満たす」の中に、単純に快哉を叫べる物語や(ハッピーエンド)、悲劇の形をとって共苦と涙でカタルシスを得られる物語、といったヴァリエーションがいろいろ用意されているのでしょう。
件の『さくら署』も、公式サイトを見る限り、まるっきり「それ向け」って感じがしました。まぁ四十になった男が好んで見るような作品でないことだけは確かそうなので、要は製作者が期待した客層に受けたか受けなかったかだけじゃないかな、と。製作者は当然にターゲット層の日頃の不満や鬱積を「晴らす、満たす」つもりで作ったでしょうから、その意図通りに視聴者が「気分が晴れ、気持ちを満たす」ことができたかどうかだけが、成功作か失敗作かという分かれ目だと思います。
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