| |
猫まんこさん
>うーん、話が噛み合ってないというか、
わたし的には噛み合わなくていいんですよ。スレッドの中心はあるTVドラマに対するラクシュンさんの不快感だからラクシュンさんに対してはできるだけ噛み合わせようと思ってますが、猫まんこさんや芥屋さんとの会話ではそこから外れてもいいやと思って連想ゲームのように思いついたことを書いています。
私の書いた「リアル」についてですが、
>そもそもJosefさんの発言は
>『たとえばカフカの小説は「不条理」とか「悪夢のよう」などとよく言われますが、どんな「リアリズム」小説よりリアルです』
>なのですから、前者のリアルと後者のリアルが混同された話になってきてるのでは?
ここで私が言ったことを縮約すれば「リアリズム小説はリアルでない」です。世紀転換期以降のシューレアリズムだの表現主義だの自動筆記だの抽象絵画だのは19世紀的なリアリズムに対して「おまえはリアルではない」と宣告したものですから、ある意味私は100年も前の宣言を繰り返しているだけなんですね。
私の上のような書き込みに対して芥屋さんは
>『忠臣蔵』の世界とでも言いましょうか、勧善懲悪の明快な復讐劇。そこには、「実際に彼らはどうだったのか。事実はどのようなものだったのか」という探究心は余計なものであって(それはあくまで史学的な快感)、大衆演劇としての醍醐味はそのような「リアルの追求」は求めない。
と書いていて、ここでは「リアル」の意味がまた違っています。「史学的な事実」はリアリズム小説の「リアル」に近く、理解可能な因果関係を壊して人を不安に陥れる「リアル」とは違います。が、先に言ったように、それもまたいいだろう、と思って私もレスしています。
では、テレビについてです。
>Josefさんは異論があるかもしれませんが、TVの番組である以上スポーツも同じであると考えます。
異論はありません。私もまた水戸黄門を楽しむ人と同じようにスポーツという予定調和の番組を楽しんでいます。番組作成者の意図とはズレたところを楽しんでいるかもしれませんが。
>しかし、TVの番組でありながら、スポーツを「スリル」あるものに回帰させる案はあります。
>聞きたいですか?
是非聞かせてください!
>TVの「プログラム」も根源的にはそういう性質あって、だからこそ、一見何でもないと思われる「TVドラマ」でも、例えばラクシュンさんには暴力的に響く。
>それは、ラクシュンの個人的な資質の問題に還元してしまうのではなく、やはりその「プログラム」に投影されてる部分の問題だと思います。
ていうか、ドラマと視聴者との関係でしょうね。私が猫まんこさんのことを「ケチ」だと言うとする。しかしそれは私が猫まんこさんに過大な奉仕を要求する強欲な奴だからであって、猫まんこさんに「ケチ」という性格が内在しているわけではない(同様に私に「強欲」という性格が内在しているわけではない)・・・というのは岸田秀的相対論ですが、件のドラマとラクシュンさんの関係もそういうものではないかと思います。
|
|