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>ラクシュンさん:
で、楽さんの今件の主題で言えば、「気の毒な女にひどいことをする悪い男をやっつける」というお決まりの、定番の、芝居の演目じゃないかという気がしますね。ただしちょいと新味があると言えば、かつては「女にひどいことをする悪い男をやっつける正義の男」であったものが、「女にひどいことをする悪い男をやっつける正義の女」という、ある意味では当世流行の型になってきたという…でもまぁ、やっぱり同工異曲なんですけども。
楽さんの感じる気持ち悪さというものも半分はわかるんですけど(それは後述しますが)、私が思うには、この芝居の世界の中では、「悪い男」でなくちゃいけないわけです。その辺で楽さんが上で書かれている、
>ここでいう、女という性=「善玉」「善良」、男という性=「悪玉」「性悪」という役割付けとは、私がドラマ一般を背後で支える“ジェンダーのコード”と言っているもので、それについても一言あるというのはその通りです。 そして、刑事or推理ドラマのなかで男=性悪・悪玉、女=善良、善玉という印象がどうやって形成されるかというと、同じ犯罪であっても男に厳しく(女に甘く)描かれる、同じ復讐殺人でも性悪女への復讐は排除される(性悪女の排除)、主に男の犯罪が描かれる(性悪女の排除)等の理由によってでしょう。しかし、これはこれで既に長い歴史があるわけでしょう。
ここが、私は見方が異なるわけです。あくまで、芝居の演目の型のひとつに過ぎない。その演目の世界として、「悪い男ども」の登場が必須なのであって、「男どもが悪い」という演目なのではない。そんなメッセージを、その日の暮らしの中で疲れた頭で見て、何が楽しいものですか。
そして、悪役をやっつける側が加害者と同じ男であるのが古い定番で、やっつける側が被害者と同じ女であるのが今時の定番だというだけの違いです。この違いがどこから生じるかと言えば、もちろん、視聴者のニーズが変わってきたからじゃないのですかね。
要するに、この手の芝居の視聴者…その中核を占めるであろう、仕事や家事といった世事に疲れた女たちにとって、かつては「救い上げてくれる男の登場」が、そして今は「一緒に闘ってくれる女の登場」が、見ていて快感や共感を得やすかったり、溜飲を下げやすかったりするという…変化はそこんとこにしかないと私は思ってます。
そういうお芝居を観て気持ちよくなる女がいてですね、「あたしは悪くないのに(あたしも悪いとこはあるけど)、それにしてもひどい、ひどい男だ。あいつのせいであたしはこんなに…」という配役に自分を当てはめて感情移入するとしてですね…じゃぁそういう女は「男どもが悪いのだ!男の存在が悪なのだ!」なんて世界観に溺れるもんですか。溺れやしませんよ。
でなきゃ、一方であんなにベタなお決まりの恋愛モノが大量に消費されるはずもないでしょうに。「ひどい男ばかり出てきて、そいつらがやっつけられる芝居」も「素敵な男が出てきて、夢中にさせてくれる芝居」も、同じ女がその時々の気分で愉しんで観てるわけですよ。まぁお好みは人によりけりとは言え、もしここで、総体としての「女」を言うのであれば、どちらの芝居も、最大の消費者は総体としての女、ということじゃないですかね。
だからそういうのは男にだって作れるし、事実、その種の芝居の書き手も演じ手も多くは男じゃないですかw
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