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言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
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どーなのかなぁ、このようにクオリアについて間接的にでも語ることができている斎藤には、「認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提」されていなのでしょうか?
何故なら
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「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。
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フッサールも認めている、(自己)同一化機能・中心化機能があるお陰で斎藤は「「この私」という立脚点を肯定」できている訳でしょう?
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