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>「クオリア」でこういうところまで引っ張っていこうというのは調子に乗りすぎで、
「クオリア日記」まで引っ張る性格ですから。(笑)
ttp://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/06/post_1af6.html
>なんで茂木は「私」にこだわるんでしょうね。
ぜんぜんうまく説明できませんが、以前に茂木のHP(?)に、フッサールの著書名が書かれていた(と思う?)ことと引用文の「私たちが感じるクオリアが<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在しえない」という表現から考えれば、<超越論的主観>(≒意識の枠組み)、そしてその構成要素である[超越論的自我(純粋自我)](≒意識の働き)と[意識的相関者(意識の素材・知覚・表象)]などがごっちゃになっているだけではないでしょうか。
あとどーなのかな、「主体(被分析者・患者)」「私」「自我」を厳密に区別する(らしい)精神分析の立場からの疑問の矛先が、茂木というのはちょっと的外れというかコクな感じもします。
「調子に乗りすぎ」た結果なのかも知れませんけど。
まーしかし、あの『意識とななにか』がココで取りあげられて、そのすぐ後でしたねNHKに出始めたのは。メディアってあまりにも軽すぎ(orウソっぽすぎ)ちゃうのん?という印象を持っていたんですけどね(帯か何かに付いていた養老猛の推薦文の影響力か?)。
『心理学化する社会』を読んでも(これしか読んでない)、斎藤はこういう傾向から嫌いなんですよ。
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