| |
>猫まんこさんは「表現行為」に照準を合わせて語っています。仰る通りなのかもしれませんが、読みながら私はトーマス・マンの「生vs.芸術」という古典的な二律背反を思いました。生の充溢と芸術とは逆比例する。ブッデンブローク家は代を替えるごとに生命力を失い、没落していく。対して、芸術的感性は洗練の度を増し研ぎ澄まされていく。
>
例えば、風俗、ポルノを含めた、「性」を対象とした表現=産業はとても大きく「豊か」です。
それを私は「ヒトの性が豊かで自由になった」と表現します。
しかし、それは同時に「ヒトの性が貧困になり、不自由になったのだ」という意味を含みますし、両者は矛盾しません。
『生の充溢』とはいかなる物なのか。
自身の身体的な万能感を拡大し、世界(観)を拡大するという事ではないでしょうか。
しかし、そこでも決して個人が逃れられない事がある。それは肉体の死です。
獲得した世界をそこでは無常に手放さざるえない。だからこそ死は恐怖なのですね。
そこで、死の恐怖を緩和するため、肉体的な遺伝子上は連続した子孫に獲得したものをひきつがせる、といった「物語」により自我の死をまぬがれようとする。
『芸術』というのもそういった方便のひとつではないのでしょうか。
古代の王がピラミッドや様々な宗教施設を造ったのもそういう理由だと理解出来ないでしょうか。
肉体の死は逃れられないが、自我=物語は死後もその制約を受けない。
ヒトは肉体を生きてるのではなく、肉体を離れた自我=物語を生きてるとはいえないでしょうか。
>かつて「最近の子は鉛筆もろくに削れない」という年配者の言葉に対して「でも僕たちはあなた方の弾けないギターを弾くことができる」と若者が返したという話がありました。刃物もギターも両方、というわけにはなかなかいかないんでしょうかね。
>
空を飛ぶことを望んだクジラはもうクジラではなく、海のなかを生きることを望んだ鳥はもう鳥ではなくなる・・・とか。
両者を望むものはそのどちらでもなくなる。とか。
|
|