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>Josefさん:
>社会学者の大澤真幸はオウム信者たちを「アイロニカルな没入」と呼びました(ちくま新書『虚構の時代の果て』)。意識の水準では麻原の「虚」に対してアイロニカルな立場を取りつつ、行為の水準ではその「虚」の審級に準拠し、「虚」に内在してしまう。平たく言えば、ウソと分かっているけれど、行動はそのウソを真実として演じる。この時、自己の「内面」は、もはやそこに準拠して行動する場ではなくなっている。
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それこそがモダーンな、『洗練された表現行為』というヤツではないでしょうか?
裏返せば「個人の内実に基づいたもの」など誰も求めてはいない。と。
>昔に比べれば人々はある意味賢くなりました。新聞やテレビの情報を頭から信じる人は少なくなりました。いわばそうしたものにアイロニカルに接するようになってきた。ところがそれと反比例するように、自らの行動の基準を「虚」たる他者に置くようになる度合いが強くなっているのではないか。意識と行動が乖離し、その乖離を矛盾なく生きることに慣れてきているのではないか。しかし乖離は乖離だから、時に「こんな行動を取っている私は誰?」という疑問が起こる。いや、「私は誰?」という内面の喪失現象こそが行動を虚の水準に委ねてしまう原因かもしれません。
>「失言」への国民的非難は原爆への怒りが依然として強いことをではなく、怒りが形骸化していることをこそ示しているのだと思います。
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その分裂症的な乖離は倒錯ではありますが、しかし、私たちにとって決して「不利」なことではない。むしろ、さまざまな表現行為を「豊か」にするものだと考えます。
例えば、「戦争はよくない」「原爆は悲惨だ」という紋切り型の「表現」(火垂るの墓とかはだしのゲンとか新派とか?)が無効になってしまった今だからこそ、網の目のように張り巡らされたアイロニカルな倒錯を掻い潜って人の心を掴む表現がありうる。
舞台ですが、やや「古いタイプの表現者」に野田秀樹がいます(漫画でいえば萩尾望都、作家だと倉橋由美子みたいな?)。
.しかし、それでも、その才覚で、知的な罠を用いて、倒錯に倒錯を重ねあわす事で「形骸化したスローガン」をリアルなものとする場合もある。
氏の作品「パンドラの鐘」「オイル」は凡百の「反戦・反原爆」では届かなくなってしまった所を確実に打つ、最も良質な作品でしょう。
また、普通に男女間のエロスがリアル過ぎて、か、色褪せすぎている状況では男を女が演じる宝塚的な物が説得力をもつ。
一度ほつれたリボンはそのほつれを解こうとするよりも、むしろそのほつれに別のほつれを重ねあわすほかはありません。
いまさら「原始社会に還れ」なんてちゃんちゃら可笑しいでしょう?
表に見える圧倒多数は「サザエさん」「水戸肛門」であろう現在では、全て上滑りに見えるでしょうが、全ての表現行為は政治的に進化してるんじゃないか?と私は楽観してるのです。
>ちなみに私は「失言」を出るべくして出たもの、それどころか誰かが言わねばならなかったものだと思います。欺瞞的な家族ごっこを演じている家庭で、子供の一人が非行に走って家族ごっこをぶち壊してしまうとき、その非行は起こるべくして起こったものだと言いうるような意味で。
>原爆を、原爆だけではなく都市空襲による無差別殺戮も、戦後の日本は事実上「しょうがない」ものとして扱ってきた。そう扱わざるをえなかった。戦前を全否定することとセットで。そしてそこに平和国家だの平和都市だの非核三原則だのといった「平和な家族ごっこ」を覆いかぶせてきた。おっちょこちょいの久間氏はついぽろりと言ってしまった。思わず万引きをしてしまった「平和な家庭」の子供のように。
確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。
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