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> 何か変化をめざすほうが良いということにもならない(^^)
そう、だからこそ、どういう変化が望ましいか、あるいはどういう変化であれば「ないほうがマシ」であるのか、個別に判断するべきですよね。
> 例の荒川区の男女共同参画社会懇談会の件ですが、保守派の林道義さんも
> 高橋史朗さんも、「慎重に判断せよ」で、「ポジティブ・アクションする
> な」とまでは言っていないわけですよ(^^)。
あのー、これはわたしの勘違いなのかもしれませんが、日本の政治文化において「慎重に判断せよ」というのは「反対」というのとほぼ同義なのではないですか? だとしたら、「これはポジティブ・アクションの否定だ」という指摘は、事実として間違いとは言えないような。
# サヨクの言説でも、「〜は慎重に議論せよ」と主張するときは
# はっきり「反対」の意味で言っているように思うんですが。
> 何だか、日本のフェミニストさんたちによれば、ポジティブ・アクション
> はどんなものでも無条件に全て正しいということみたいですよ(^^)。
そんなこと言っていないでしょう。むしろ、林さんらが「ポジティブ・アクションはどんなものでも無条件に全て間違い」だと思っている、とかれらが思っているからこそ、批判しているのでは。
もしかしたら、これはかれらの勘違いなのかもしれません。もしそうであれば、「われわれはポジティブ・アクションはどんなものでも全くダメだとは思っていない」「こういう条件の中であればポジティブ・アクションは認められるが、こういう例は認められない」みたいに分かりやすく説明してもらえると嬉しいのですが、これまでわたしが見た文書を読む限り、そういう説明はなされていないようです。
> 言葉の遊びとしては面白くても、現実感がないから大多数の良心の共感
> を呼ぶことはできないと思いますよ。
あなたは、その文章の意図を勘違いしています。
もしわたしが、同性婚の実現のために、多数の人々の共感を得ることを目的として文章を書くのであれば、当然それに適した書き方をします。当たり前です。しかし、芥屋さんへの質問はそういう文章ではありません。
あの文章の意図はというと、異性婚しか認められないのは「結婚」という言葉の定義によるから、異性婚しか認められないのは当たり前であって不平等とは呼べない、という論理に対する反論です。
つまり、法律上の「結婚」「婚姻」が異性カップルにしか当てはまらない言葉であるのと同様、「同性婚」は同性カップルにしか当てはまらない言葉ですから、法律の言葉を入れ替えて、その結果同性カップルだけに特権が認められるようになったとしても、全く同じ論理から「不平等とは呼べない」という結論が導き出されるはずです。しかし、実際それに「そうだ、不平等ではない」と納得できる異性愛者がどれだけいるのか、とわたしは思うわけです。
これは論理の問題なので、わたしが同性婚に賛成であろうと反対であろうと無関係に成り立ちます。というより、同性婚は例として出ているだけで、問題は「現実に不平等が存在するのに、言葉の定義によって存在しなかったことにできるかどうか」です。
わたしは、言葉の定義によってはそれは不平等とは呼べない、という芥屋さんの珍説に反論するためにこういう例をあげたのであって、この例をあげることで同性婚への賛成を増やそうという意図はありませんし、また現実的にありえそうなシナリオかどうかも関係ありません。
> 歴史的には「同性結婚」というのは、本来、異性愛カップルの結婚制度と
> いうのが前提としてまず確立されていき、その後、そのルールを同性愛
> カップルにも拡張してほしい・してあげるべきだ。という形で主張されて
> いくんですよ。
そう主張するべきだとあなたが考えるのは勝手ですが、そのような形の主張以外をしてはいけない理由がなにもありません。「それでは社会に受け入れられない」と言うかもしれませんが、(1)それ以外にも有効なメッセージがありえますし(もちろん、ダメなメッセージもたくさんあります)、(2)わたしにとっては運動が全体主義化するよりは、成果を得られるのが多少伸びた方がマシだと思っています。
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