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>>学問的な見解を「政治的に都合が悪いから」と捩じ曲げるのはよくないでしょう?(macskaさん)
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>論理的にも破綻していて、政治的戦略にも使えない。使って戦略を立てたら、誤爆が増えて、問題を増やしてくれるだけの、「差別の定義」を「学問的な見解だから」という理由だけで擁護する気にはまったくなれない。(純子さん)
「差別」のようなマイナス価値を内包した語を政治性抜きに定義するのは難しいような気がします。もちろん定義は自由なのですが、普通は、ゴタゴタした多様な社会現象の背後に形式的同一性を見出すことによって、統一的な視点から全体を見通すことのできる有用性・応用性の高い定義が探られるでしょう。その際、何が「差別」に含まれるべきであり、何が含まれる必要がないのかという定義者の価値判断が入ってくるでしょうし、その判断は定義者の政治的立場と無縁であるわけにはいかないのではないかと思うわけです。
自然科学であれば、たとえばかつて「燃える」とは火や煙が出ることだったのに対して、酸素との結合という形式的同一性が見出されて「燃焼」が学問的に定義され、より広い範囲の現象を一つの原理で説明できるようになったように、「政治」抜きでより有用かつ普遍妥当性の高い定義を行うことができます。しかし社会系の学問では、「有用」というところに「政治的有用性」が入り込み、作られた「定義」自体がある意味定義者の政治的立場の表明でもある、というふうになってしまうのではないかと思うのです。
定義が無用だと言いたいわけではありません。多くの人が納得できる有用な定義があるに越したことはありませんから。ただ、「学問的見解」が「政治的」と峻別された場所に可能であると本当にmacskaさんが考えているのかどうか、少々疑問に思います。
まあ、差別の定義は改めてご自分の所に書くということなので、それを楽しみに待って勉強させてもらいたいと思います。
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