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>macskaさん:
>まず、そもそも大きな不都合がない限り全ては自由であるというところからわたしは出発しているわけです。
そりゃ出発点がおかしい。誰かが何を求めようが、それに大きな不都合があろうが、それは自由だというのが真です。ところが「大きな不都合がない限り」を自由であることの初期条件にするなら、自由などというものは成り立たない。大きな不都合がないことをもって初めて自由だというのは、与えられた自由さの中で、のびやかに好きなようにできることだけが自由だというのと同じ。そんな退嬰的な考え方でどうするか、子供じゃあるまいし。
およそ生きていて、自分が求める何かに大きな不都合がることくらい、いくらでもある。たとえば、あなたが求める自由が他人の自由と衝突することもあるだろう、その場合、双方の自由それ自体が相手にとって大きな不都合ではないか。すると、一体、どうやったら双方ともが自由だと言えるのかな?
>個人的な好き嫌いなどをもとに理不尽な扱いをすることがあっても、それは基本的に容認していこうと。だって世の中には偶発的なことで得したり損したりすることがあって当たり前ですからね。
それもおかしい。どういう具合に理不尽なのかにもよるけれど、容認すべきかすべきでないかはケースバイケースですよ。それに「個人的な好き嫌い」が世の中の嗜好一般と関係ないなんてことがあるかね?
事実、あなたの論理は、服装の「個人的な好き嫌い」だって「ジェンダーの規範」とやらで「再生産」されたものだと言うわけだろう。で、「自発的にジェンダーの規範に従った人」の「個人的な好き嫌い」でもって、「自発的にジェンダーの規範に従わなかった人」の「個人的な好き嫌い」が低評価を受けるのは「差別」だと言うんだろ?だったら「個人的な好き嫌いなどをもとに理不尽な扱いをすることがあっても、それは基本的に容認していこう」なんて、空文も極まったりではないか。
>だって世の中には偶発的なことで得したり損したりすることがあって当たり前ですからね。しかし制度化された差別については、放置しておくと特定の集団だけ常に不利になるし、制度自体が循環により自己保存されるので不均衡な分配が固定化してしまう。だから自由社会における例外として、差別は問題とするべきだという議論になるわけです。
そんなことは先に純子さんが書いてます。一般論としてそうだけども、服飾の男女別などは、そんな範疇のものではない、とレス済みですがそこは無視して、さも自分だけがわかっているかのようなアホなレスをしないように。
>それを言い出せば、わたしから見ればチベット仏教は仏教本来の教えからかなり離れているように見えます。
はい、お決まりなカルトの物言いですね。どうせ不落因果と不昧因果の区別もわからなかったんだろ?そんな仏教があるかヴォケw
>> 基本的な戒律に基づいた結界を、ろくすっぽ何も考えずに「女性差別」だと言いきってしまう人間が「仏教徒」であるとは思えられない(^^)
>戒律に基づいていれば差別ではない、とはわたしは思いません。何度も書いた通り、「差別だが、だからといってその宗教的意義を無視して一方的に断罪するのはよくない」というのがわたしの立場です。
じゃぁ、大峰山の戒律のどこが「女性差別」なのか仏教徒として言ってみ?
>> ジェンダーは社会的に構築されたものであり、実体としてのジェンダーというものは存在せず、人の心の中にある幻のようなものだ。しかし、社会的に構築されたもの(縁起によって生じたもの)であるからこそ、それは変転変移しながらも、尽きる(無くなる)こともない。以上。
>そんなことで仏教を持ち出さなくても、考えられる限りの近未来においてジェンダーが尽きることなんてありえないし、なくすべきだとも思っていませんが。
「近未来において」って、誰もそんなことを聞いてないが。あなたのジェンダー仏教か何か知らんけれども、遠い将来はジェンダーが尽きることもありえるし、なくすべきだとも思ってるわけ?
>> ある意匠が女性服に用いられていて、男性服に用いられないのは差別だ、対等であるべきだと、いってしまうと、男性服と女性服の意匠をまったく同じ基準にしろといっているのと同じになる。
>「〜だと言ってしまうと」そうなる、というのはその通りだけど、わたしは一度もそう言っていない。
言ってることになるじゃないか。差別だし対等でないけど、このままでいい…と言ってるわけ?
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