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>macskaさん
>いえ、できます。信じていればそれだけで主張できる。というか、実際のところ信じてすらいなくても、主張だけならできるわけです(例:弁護士)。
はい、しかし考えてみればこのケースでは、単なる嘘か業務上の義務として被告の主張を形式的に“信じ”ているだけですよね。だからその意味では、この反例はあまり実質的な意味を持たないと思います。
>ありませんね。わたしはパンフを総体として擁護しておらず、ただある特定の批判がサヨクそっくりの妄想的あるいは狼少年的なデマであると反論しているだけですから。
私の論点においては、macskaさんがこれまで言ってきた意味での「パンフを総体として擁護」していようがいまいが、そのことは殆ど何の意味も持ちえないということです。
>はっきり言って、「押し付けは子どもの可能性を狭める」と書いた著者が、何か具体的な被害を想定していたとは考えられません。ただ漠然と「押し付けは良くない」と思って男女で違った扱いをするかもしれない場面をいろいろリストアップしたところ、たまたま「ひな祭り」という項目が入り込んでしまったのではないでしょうか。他の方も指摘していましたが、時代背景に合っているかどうかということを考えると、あのリストがそれほど丁寧に作られている様子もないですし。
パンフを読んで、その内容の詐術論理的な強制力に胡散臭さを感じた人の何処に、パンフの執筆者の意識内容や時代感覚までをも勘案するべきだという義務が見出せるというのですか? 明らかに甘えすぎです。
(論理的強制力については、例の式とは別にいろいろ考えられそうですね。人によってはパンフの文面に「山のパラドクス(*」を導いてしまう“滑りやすい坂の論法”を読み込んでいるかも知れません。「破壊」の積りはなくても「破壊」を意味する、みたいな。)
*) 前提1:高さ6000mの峰起は山である。
前提2:山が1mm低くなっても山でなくなりはしない。
結論 :6000mマイナス1mmの峰起は山である。(←『論理学がわかる事典』より)
…で結局、5mmの山も山である。(笑)
>何も問題ないとは言っていません。が、常に問題があるとも思いません。
>例えば、(…)
私も全てのケースにおいて、「常に問題がある」とは言っていませんが、macskaさんの例では、既に経験済みの記憶の呼び出しの話に摩り替っている上に、問いの妥当性については受け手の意識に依存しています。しかし今回の問題はその受け手の意識がそれに拒否反応を示しているということですよ。だとすれば、その反応にmacskaさんすら特定不能な執筆者の意図(?)が優先されなきゃならない理由なんてないでしょう? レスを読んでるだけで私も疲れ果てた国民さん状態(笑)です。
>さて、「子育てにおいて『男らしさ・女らしさ』を押し付け、それにより子どもの可能性を狭めていませんか?」というのはどちらに近いかと考えたところ、わたしが思うに後者に近いのではないかと思います。もしこれが前者と似ているとお考えでしたら、そりゃこのパンフを誤読するでしょうよ。
だからそれは、macskaさんが単にそう「思っている」(or信じたい)だけじゃないですかぁ?
つまりそう“信じている”だけということであって、“信じる”だけで全てが正当化されるならオカルト教団の殺人事件だって“信じ”ていたという理由で正当化されてしまうんですよ。
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