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雛祭りとか、命名や言葉遣いの男女差とか、副委員長云々等もすべて、パンフの挙げるリストは要するに「ジェンダー」ですね(もちろんパンフが言うところの「ジェンダー」です)。パンフがジェンダー総体に否定的であることは明らかで、それは芥屋さんも指摘しているし、macskaさんも同意しています。内容への賛否は別として、パンフの伝えるメッセージはとても明解で、誤解の余地はほとんどないと言っていいでしょう。
パンフによればジェンダーとは「社会的・文化的に形成された性別のこと」であり、ジェンダーにとらわれた見方がジェンダー・バイアスです。ジェンダーは「人々の多様性・可能性を制約する」ものです。そこで「ふり返ってみましょう」と「点検」が求められる。たとえば雛祭りを性別と無関係に行っていたら点検結果は「問題なし」、「女の子だから」という理由で行っていたら、それは「ジェンダー」だから「問題あり」。リストはそういう点検・チェックの役割を果たしています。
参考までに同じ日本女性学習財団作成の「クリアホルダー」なるものを見てみると、「今、なぜジェンダーフリーなの?」という問いにこう答えています。
>ジェンダーフリーとは、固定的な性役割分担意識にとらわれないこと、さらには社会的・文化的に形成された性別そのものの解消を意味します。これまでジェンダーは、男女の間にさまざまな不均衡や問題を生じさせてきました。人々が個人として尊重され、多様な個性を発揮した生き方を進めていくためには、ジェンダー・フリーな社会の形成や、意識の変革が重要です。ジェンダー・フリーとは、ジェンダーを気にしない、ということではありません。むしろ、生活の中に溶け込んでいて気づかずにいるジェンダーを発見し、これを解消していくことを目指すものです。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jawe2/publish/img/folder/gender2.jpg
これまた非常に明解で、件のパンフと方向性は同じです(同じ財団の発行物だから当たり前か)。ちなみにmacskaさんが引用していた宮台氏の「再帰性」をキーワードとするジェンダーフリー理解とは大きく異なっていることも分かります。ジェンダーを国家に喩えると、財団の言うジェンダーフリーは「国家は悪いものだから無くすべき」という大昔の左翼のレベルに止まっている。
国家を自然的所与のごとく無反省にそれに同一化するのではなく、かといって国家を悪として嫌悪したり否定したりするのでもなく、国家というものが現実世界の中で持っている、あるいは持ちうる機能・功罪を見極めながら意志的にそこに参与しより望ましい方向へと操縦しようとすることが「再帰」であるならば、そのような「再帰性」を軸にしたジェンダーフリーにはそれなりに考えてみる価値があるでしょう(エリート色ぷんぷんの憾みはありますが)。
しかし財団のパンフや上記クリアホルダーが言うような、言葉だけは新しいが発想においては何十年も前の古色蒼然たる体制解体論にすぎない「ジェンダーフリー」がかつての宗教否定・弾圧や紅衛兵を想起させてしまうのは仕方がありません。むろんジェンダーフリーはそんな「力」を持ってはいない。ゆえに、「全体主義」云々の言葉は対象を恐怖するのではなく対象の浅ましさを嗤う言葉として投げつけられるのです。
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