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>macskaさん:
>> でもまぁ、ハッキリ言って、社会学習説と社会構築説とを混同したジェンフリ教育論ばっかりじゃないのかな、日本の現状は。
>いや日本に限らず、米国でも混同されていますね。
本来レイヤーが違うんだということとは別に、現実には見分けがつかないものが多かったということは理由に考えられませんかね。社会学習説に対する距離の取り方とも関係してくるとは思うんですが、仮に両極端な二つの見解で言うと、
1.タブラ・ラサ説を信じている。
2.脳の性差は決定的だと思う。
社会構築説そのものは、どちらが正しいかというレイヤーではない。というか、どちらの見解が真であるにせよ、そのことをもとにどのような男女観が社会的に構築されていくかを見ている立場ですね。
本来的にはそうなんだけど、1の論者が社会構築説を併用することが多かったのでは。これも極端に書くと、
『人の脳は生まれながらに何も書いていない石版である。男女の違いというものも、性器・生殖器の違いしかなく、ものの見方や考え方や感じ方に生まれながらの違いはない。すべて生後の学習なんだ。その学習することは、社会的に作り上げられたものを刷り込まれ、覚えていくに過ぎないんだ。』
これだと、頭の良し悪しというより、素人にも玄人にも、社会学習説と社会構築説の見分けがつかない。マネーの説も、これに近いのでは? 2の論者でも社会構築説でこう言えますよ、というものを見せられて、「あ、この二つは違う次元の説なのか」と理解できる。
で、現状では『』内で書いたことをめぐって
A:そのとおりである。その社会的に作り上げられたものはほとんど女性差別につながる偏見なのである。だからして男女の違いについて、従来の男女観を教えてはいけない。
B:いや、そうではない。学び教わるものであるからこそ、偏見であれば正すのは当然だが、多くは人として大事なことなので、覚えて身に着けさせるべきものなのだ。
C:というか、先天的に違うんだってば。学ばせなくても違うんだけど、学ばせないと先天的なものと食い違ってきたりして、やばいってば。
という論争ですかね。アメリカの教育学でも、タブラ・ラサ説の信奉者が多かったのでは…?(それがかえって、子育てにおいて何を学ばせるかでその子の人格が決定的に異なってくるという強迫観念を親に与えてしまったという側面がある、という話を聞きましたが。)
思うに社会構築説は、まず史学の素養があって、そこに社会学的なアプローチを併用しながら見るものであることの意味がわかってないと、いきなりは使えないんじゃないかな…。
>> だから学校の先生は、社会構築説を知らずに社会学習説によって「ジェンダーに敏感であろう」と解釈してしまうのではないか。
>それは、ありそうな話です。
今の教育論争は、これが大きな問題かな。
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