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macskaどん
> わたし個人がどう自省するかですか?
違います。《「自省」する場合があるとしたらどういう場合か?》とお尋ねしております。
> わたしはジェンダーフリーとは関係なくそもそもひな祭りを祝う慣習がないので、その項目によって何かを自省することはないでしょう。現実にひな祭りを祝う家庭では、もしかすると思いあたることがあるんじゃないかと想像しますが。
その想像の内容をお尋ねしているのですけど。
「あるとしたらどういう場合か」と、仮定形になっているのは、そういう意味です。現実のあなたが実際に何を自省するかなんてことには、ここでは話題になっていません。雛祭りを祝う習慣があるかないかなんて、全然関係のない話。
結局のところ、「自省」の内容については、あなたには想像もつかないって話じゃないの。
> tpkn さんに質問ですが、「基本のき」からひな祭り・鯉のぼりの項目を取り除いたら、あとはOK(あるいは、批判があるにしても別の批判になる)ですか? わたしはひな祭り・鯉のぼりの項目にそれほど大きな意味を見いだしてはいないのですが、なんだか極端にそればかりにこだわっておられるようなので
あのですね。それについては、私は前回も今回も議論の中でちゃんと明言してます。あのリストはほとんど全部おかしい。あなたは2回ほど無視したけど、いろんな自治体がやってたジェンダーチェックと、それが404になって証拠が消えてる例を示しているでしょ。それらに対する批判の骨子は、雛祭りの例示に対するものと同じです。
ところがそのおかしさについて全体的に論じようとすると、あなたは「今は雛祭りの否定があったかどうかという話だ」といい、ならばと雛祭りを焦点に論じようとすると「雛祭りだけをとりあげてどうこう言うな」と言う(カギカッコ内は発言の引用じゃないですよ、大意ね)。したがって、「極端にそればかりにこだわっておられる」というのはmacska風に言えば《単純な誤読ではないかと思うので、すみやかに撤回してください》。
> わたしから見ると、「基本のき」の記述は「ウザイ」レベルの話なので、それを文化大革命だとか全体主義のようにさも大層なことであるかのようにでっち上げている側の方が、自分たちの思想を押しつけているように見えます。
私たちが押しつけている「自分達の思想」とは何思想ですか?「文化大革命なんかイヤだ」思想? あるいはアンチ全体主義? 「行政や政治思想は個人の内心に立ち入るな」という個人主義にもとづいた主張をすれば、それは何かに対する「押しつけ」になるのですか? どちらもそれ自体は押しつけとは言えないし、他者の自由や権利を侵害しないという意味では、さほど問題があるとは思えませんけど。
> そもそも、そんなに気軽に「でっち上げ」という言葉をあなたが使うのであれば、わたしがバックラッシュ勢力の主張が「デマや誇張である」と言ったことをどうしてそんなに問題視するのか分かりません。ジェンフリのパンフなんて読まなければそれで済む話だし、せいぜいウザイ行政パンフができて税金と資源の無駄遣い程度の問題でしかないでしょ。
だって、「自省してみましょう」という呼びかけだ、としながら、たとえばどういう自省をしたら子育てに有効なのか、あなたはまったく説明することができないわけです。曰く「本人が勝手に反省すればよい」「私は雛祭りしないのでわからん」。もちろん、私もそんなことは各自が勝手にやればよいと思うし、雛祭りの何を問題にしているのか全然「わからん」。ということは、雛祭りや鯉のぼりには、ジェンダーと子育てというトピックでやりだまに挙げて自省しなければならない要素など実は何もないということです。何もないのに、さも何か問題があるように「問い直しましょう」「自省しましょう」と呼びかけるのが、デッチアゲまたはマッチポンプでなくてなんでしょうか。火のないところに無理やり煙を立てる、そういうことでしょうに。
あなたが「デマや誇張である」とした部分には、デマではなく誇張ではないものがたくさん混じっています。そりゃ林道義あたりが「ジェンダーフリーは悪魔の共産主義思想だ」なんて言えば、大げさなと言いますよ、私も。ブルマーがなくなったのはフェミの陰謀だ、とかもデマでしょう(笑)。しかし、ジェンダーフリーは雛祭りや鯉のぼりを実際に問題にしたし、それと同じ論法でランドセルの色だの名簿の男女順だのといった表層ばかりを「チェック」し、それを既存のジェンダーにとらわれているものだとして否定しようとしてきたわけです。だから雛祭りを否定しようとしたというのはデマでも誇張でも何でもない。これがその証拠だとあなたにつきつけても、「そのパンフは何も言ってない」「自省するには有用」という、支離滅裂な答えが返ってくるだけではないですか。
「読まなければそれですむ話」なんかではないのは、こういうパンフによってヘンテコなジェンダーフリー思想を植え付けられた、たとえばxanthippeみたいなタイプのオバハンがいろんなところに発生していて、他人の権利を侵害する活動にやっきになっていることでも明らかです。読まないで、知らないでいたら、それこそいつの間にか「あなたが子供に黒いランドセルを買うのは差別の再生産です」なんてことにすらなりかねない。
> それで弊害がないという立場に立てば、そうでしょうね。しかしパンフの著者は、育児において「男らしさ・女らしさ」が無意識的に強要される結果、子どもたちの可能性の一部を閉ざすことになる、という弊害があると考えているのですから、「振り返ってみましょう」と呼びかけるくらいは不自然ではありません。
またここで雛祭りを離れて一般論に逃げる…。雛祭りや鯉のぼりや女の子らしい名前は、はたしてその「無意識の強要」となりうるのですか? その程度の「強要」は許容されてると言ってませんでしたっけ? 違うのだとしたら、どういう「押しつけ」なら許容で、どういうものならダメなのです? ジェンダーにまつわるものだけは、どんな小さな「強要」も許さないということでしょうか。
そんなこと言ってるから、異常な思想と言われるんですよ。
> ですから、「弊害がない」という立場の人が、パンフは前提が間違っているから問題であるとか、合理的根拠を欠いていると批判するならご自由にどうぞ。しかし、ある人から見て「合理的でない」からといって全体主義的であるという評価まではかなり距離があります。
全体主義的であるという評価は「合理的でない」ことに対してなされているのではありません。その合理的でない考えによって、個人の内心に立ち入ろうとすることをもって、全体主義的(思想統制的)と言ってるわけです。だいたい、「合理的でないから全体主義だ」なんて支離滅裂な主張、私は一回もしてないでしょ。いや、むしろ「合理的すぎて全体主義だ」というのが「文化大革命」という批判の底に流れる意識じゃないですかね。
> どこが揚げ足取りかというと、わたしは「パンフの呼びかけは、伝統主義者ではなく無意識にジェンダーの規範を再生産している親に向かって、一度意識的に考えてみましょうと呼びかけるものだ」と主張しています。そのうえで、意識的に伝統主義を選択した人たちに向かって「考えを改める」ような呼びかけも、「どんな考えの持ち主でも、新たな主張に出会うことで考えを改める可能性はある」から無効ではない、と書きました。
>
> この書き方から明らかなように、わたしが「パンフの真意」として説明している「呼びかけ」と、後半に出てくる「呼びかけ」は、内容が全然違うのです。後者の呼びかけは「ジェンダー観の変化」を目的としていますが、前者はそうではありません。そして、後者についてはよほどの事情がない限り行政がすることではないと書いている。このように目的が違う2つの「呼びかけ」を、あなたは混同しています。
むちゃくちゃですね。これこそ絵に描いたような詭弁でしょう。「パンフの真意」として説明している呼びかけと、後半の「呼びかけ」の内容が違うのだとしたら、それは単にあなたが意図的に論点をズラそうとしたというだけの話です。だって、後半で「そういう呼びかけ」として言及されているのは、あなたが「パンフの真意」として説明している「呼びかけ」のことですよ。でなければ、「そういう」という限定が意味をなさないでしょうが。
だいいち、あなたはこのパンフは「考えを改めろ」とは言ってないとずっと主張してきたのだから、後半の「呼びかけ」が、《「考えを改める」ような呼びかけ》なのであれば、それはすでにパンフとは何の関係もない話でしょうが。少なくとも、私は「パンフの呼びかけ」は伝統保持主義者には何の効力もないではないか、とあなたに問いかけたのです。その答えとして言及されるべき「呼びかけ」が、なぜ突然《「ジェンダー観の変化」を目的と》したものに変わっちゃうのですか?
それは、あなたが「呼びかけ」を、何の断りもなく勝手に「主張」と言いかえていることによって生じた誤謬でしょうが。それまでさんざん「このパンフは何も主張していない」と言っていたけども、こういうところでポロッと本音が出たというわけです。
> この部分は単純な誤読ではないかと思うので、すみやかに撤回してください。
馬鹿なことを言ってはいけません。上のようなすり替えと詭弁が、意識的になされたものなのだとしたら、本当にあなたはどうしようもない不誠実な論者だと言うしかありません。
この詭弁に至った流れを芥屋スタイルでまとめておきますよ。
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ma:あらかじめ考えを尽くして決定した人にはそんな呼びかけは必要ない
tp:であれば、親が伝統保持主義者(あらかじめ考えを尽くして決定した人)である場合にのみ、この呼びかけは「必要ない」ということになる
ma:どんな考えの持ち主でも、新たな主張に出会うことで考えを改める可能性はありますから、そういう呼びかけは全く無効ではない
tp:要するに伝統的保持主義者がその呼びかけに従って「考えを改め」たら、その呼びかけは「有効」だったということでしょう?
ma:わたしが「パンフの真意」として説明している「呼びかけ」と、後半に出てくる「呼びかけ」は、内容が全然違う
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「全然違う」わけないでしょうが。
それはあなたの都合によって「違う」ことにしないと困るというだけの話であって、上の流れで言及されている「(この)(そういう)(その)呼びかけ」は、全部同じものです。それが「違う」ことになったのは、あなたが「何も指図していない」と言ってきたこのパンフの「呼びかけ」を、「主張」と言いかえたところからです。
まとめると、あなたはこのパンフの呼びかけを、「とくに何も考えてない人には必要、あらかじめ考えをつくしている人には必要ない、でもそういう人が考えを変えたら無効ではない」と言ってるわけ。足揚げまくりですけど。
> 思想を持つ人、というのはもちろん自分も含めて言っているので、天唾ではないでしょう。
「自分も含めて」なんてのは口だけだと判断するしかないでしょう、こういう状況では。
> パンフは「既存のジェンダー観」そのものが駄目だとは書いていないですし、あんなパンフが圧力だというのもバカらしいです。「このパンフによる(思想の自由に対する)実害」なんて、「ひな祭りによる(育児上の)実害」よりさらにありそうもない。一昔前のサヨクじゃあるまいし、どうしてそう極端な表現をしなくちゃ気が済まないのかなぁ。
だから「実害」なんてどこにも書いてないでしょ? いや、もちろん実害はいろんなところで生まれてますけど、いったい何をもって実害とするのかという話をするのがめんどくさいからその論点は避けてるだけです。「実害がなければいい」なんて、それこそ批判という行為の意味をすべて無化する暴論でしょう。
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