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>macskaさん:
「男らしくしろ女らしくしろ」:美的な行動を実践するよう求める
この段階が何らかの圧迫を伴う場合のみを批判しているとのことですが、それならば、どのような圧迫の存在を想定しているのか、それを明らかにしなければなりません。また、そのような圧迫の事実にもとづいてなされる批判でなくてはなりません。つまり、私が改めたような主張でないとおかしい。再掲します。
>>さて、個人の男女観に影響を与える社会通念的な男女観や、それにもとづく諸制度だって従うかどうかは自由意志なのだから「問題ない」という意見には、いくつかのレベルでこたえることができます。そこで、もっともよくある「男ならこう」「女ならこう」という規範的な男女観を考えましょう。
>>
>>まず第一に、「男らしくない」「女らしくない」についてですが、これは美的評価ではあっても制度ではありません。やや規範的に共有されている部分も主観的な好みの部分もあり、様々です。もちろん迫害されなくても実際に恋愛や交際などにおける不利益が存在することなら指摘できます。しかし「従来通りのひな祭りを家庭において祝わなかったために雇用差別を受けた」例は現実には存在しないでしょうし、「男らしくしろよ」「女らしくしなさいよ」と苦言を言われても意に介さなかったために雇用差別を受けた人もおそらくいないでしょうから、同列にはならべられない。もし万一こうしたことがあっても、それは個別に発生した不当な事例でこそあれ、それを「差別」とすることはできません。*そう考えるべき理由については、下記URLを参照してください。
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372472/bbs_tree?base=2351&range=1
http://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=one;no=739;id=keya1984
>>
>>第二に、「夫の役目」「妻の役目」についてですが、これは雇用差別のような直接な形でなくても、特定の性役割分担を前提とした制度上さまざまな社会設計が行なわれていることにより、「夫の役目」「妻の役目」という固定観念に従わない(従えない)人が非常に損をするということがあります。具体的には、専業主婦とフルタイムの男性労働者のカップリングを前提とした社会保障制度や税制、雇用慣行などがありますね。それら制度的な理由により、夫婦分業制に従わない生き方を選択した(せざるを得なかった)人は、そうしない人に比べてとても苦労することになります。この点も、あなたがそうした状況に配慮するべきだと考えるかどうかは別として、ひな祭りの祝い方によって実生活上大きな困難を抱えることはないわけですから、少なくともそれと同列には並べられないことは分かるでしょう。
これに反論はありますか?ありもしない差別をでっちあげて反差別だと僭称するような言説はむしろ反差別の障害になりますので、公の場ではしかるべく叩かれるべきです。ましてそのような誤った差別論によって、政治的に介入させてはなりません。なぜなら、いみじくもあなたが言われるように、
>圧迫というのは、もちろん文字通りの命令だけではない。というか、何の権力も暴力も持たない人が口先で命令するよりも、権力を持つ人の無言の圧力の方がよっぽど圧迫になるということがあり得ますから、文字通りの命令にこだわる必要はない。権力による命令のほかにも、経済的な圧迫、規範としての圧迫、アーキテクチャによる制約などがあり、それらが一律に禁止されるべきだとは思いませんが、その中のある部分については政策による介入の対象としてもおかしくない。どのような介入なら認めるのかは別の議論になりますが、「人々の内面には立ち入らない」が原則です。
そのとおりだからです。
なお、
>ところでわたしは思うんですが、そんなにわたしのことをアメリカニズムだと言うのであれば、行政が人権啓発事業を行なうのは非常に日本的だとは思いませんか? アメリカ的なやり方は、雇用・住居差別禁止とかの法律をズバッと作ってしまい、あとは法廷に任せるというもので、わたしはそれを支持しているのですが、日本の人権行政はそういうズバッというやり方はしていません。男女共同参画やその他の人権行政が、共同体主義的な啓発的アプローチを続けたために、脱共同体化・アメリカ化した現代の日本人が「ウザイ」と反発するようになってきたという側面はないでしょうか。
これについてmacskaさん自身から
http://d.hatena.ne.jp/macska/20060927
それに対して私からブログのほうへ、
http://d.hatena.ne.jp/keya1984/20060927
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