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>macskaさん:
>その項目は自分の行動を振り返り「自分はセクハラをしていないか」と考えるためには有用だけれど、項目に書かれた事が必ずしも常にセクハラだとは限らないというわけ。これは、ひな祭りの項目が「自分は男らしさ・女らしさを押しつける子育てをしていないだろうか」と振り返るためには有用だけれど、ひな祭りを行なうこと自体が必ずしも「男らしさ・女らしさ」の押し付けだというわけではない、ということに相当します。
>>なるほど。あなたは「女の子だから雛祭りで祝う」と「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」とを等価だと考えているのですね。
>うわー、ものすごい詭弁だ。
反論不能に陥った者ほど悔し紛れに詭弁だ詭弁だとわめきますよね。
>文中の入れ替えるものが等価である場合のみにおいて成り立ちます。等価でない場合、詭弁もしくは言葉遊び以外のものではありません。
私はこの発言↑を、発言者自身の主張に適用したまで。ある論理関係を示す文中において、具体的な語句の入れ替えについてですよ。
>「セクハラをしていないか振り返りましょうという呼びかけ」とその中の一項目である「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」という条項の関係が、「らしさを押しつけるような教育を行なっていないか振り返ってみましょうという呼びかけ」とその中の一項目である「女の子だからひな祭り」という条項の関係が、形式的に等価である、という喩えを受け入れただけです。
macskaさん、日本語は正確に。ここは「喩え(比喩)」ではなく「例え(例示)」です。で、「形式的には等価である、という喩えを受け入れただけ」って、何が言いたいんですか?姑息な言い逃れで誤魔化さないように。あなたはこうも言ってるんだ。
【mango】
>>macskaさんの言っている内容の「弱者男性」をあるいは「女性」と言い換えて、「男性」を「女性」に言い換えると、そのままバックラッシュ派の言説として通用しちゃうんですよね。
【macska】
>これほど無意味な発言も珍しいです。「男性」と「女性」とでは社会的に置かれた地位が違う、というのがフェミニズムの大前提なんだから、フェミニストが主張することの「男性」と「女性」を入れ替えたら意味がおかしくなるのは当たり前です。逆に言うと、「男性」と「女性」を入れ替えても意味が通じなければおかしい、という指摘は、「男性と女性は今の社会においてまったく対等な地位である」という前提を必要とします。
http://macska.org/article/152#comment-15054
自省を呼びかけられる「雛祭りのお祝いをする」と「職場でお尻を触る」とでは社会的に置かれた地位が違う、というのが私たちの大前提なんだから、私たちが主張することの両者を入れ替えたら意味がおかしくなるのは当たり前です。逆に言うと、両者を入れ替えても意味が通じなければおかしい、という指摘は、「両者は今の社会においてまったく対等な地位である」という前提を必要とします。
>てゆーか、喩えが成り立たないと思うなら、喩えを持ち出した当人に文句付けてくださいな。
Josefさんの質問は比喩の話ではなく反語的な例示です。その例示に同意したのはあなた自身です。その同意の返答も論理形式の等価論であって、比喩の適不適など説いていません。
>呼びかけとその下に記載された一項目という関係が等価であるのであって、それぞれの項目同士が等価であるわけではない。
要するに「自省を促す呼びかけと、それつづく自省に有用である具体的な例示項目の論理関係」についてでしょう。その論理関係において入れ替え可能であることに「まったく同意」であるなら、あなたはその語句が等価であると認識しているはずです。
>「ひな祭りがお尻を触るのと等価なんてヒドイ!」とは、おそるべき詭弁としか言いようがありません。
両者が同じ性質の行為だと受け止められたなら心外だと言いたいんでしょうか?だったらそういう反発をする人には、「わたしが等価だと言っているのはそういうことじゃなくて」と説明すれば良いのです。というか、もう説明済みなのですけどね。
働く場での自省に有用である行為であり、子育ての場での自省に有用な行為であるとしているわけです。それが相手に「望まれているかどうか」を自省すべき行為なんだ(必ずしも「望まれていない」とは言い切れないので全面的に「やめましょう」と呼びかけているのではないが)という論理関係として等価なんだ、と説いているじゃありませんか。
しかし、あくまで論理の外形上が似ているからと言って、語句そのものが等価でないなら入れ替えは詭弁である、とmacskaさんはしているのですよ。だから「ひな祭りがお尻を触るのと等価なんてヒドイ!」という反発があるなら、あなたは「確かに。言われてみればそうでした。Josefさんの反語に同意したのは認識不足でした。詭弁に陥っていました」と認めてこれまでの論拠を撤回するか、あくまで「情感は著しく異なるのは認めるが、行為をする人とされる人との関係性として自省すべき行為だ、その意味で等価なのだと」と持論を展開させてゆくか、どっちかしかないのですよ。
ちなみにtpknさんへの無回答の箇所、あなたが両者を等価だとみなしているからこそ成り立つ(そしてそれゆえに反論不能になる)のだと気付きましたよ。それ、あとで掲示してみましょうか。
>当然、等価でないものを入れ替えた論理がそのまま通用するわけがない。わたしが主張しておらず、わたしの論理から導かれたわけでもないものをもとに「ここが対立点だ」と示すのもやはり詭弁です。
いいえ、あなたが主張した論理によって導かれているのですよ。それが成り立たないと言うなら、どうして導かれないのか(下記の語句の入れ替え箇所が成り立たない理由)を、ひとつひとつ具体的に反論しなくては反論たりえません。再掲しますよ。
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自省をうながす立論「OOをしていませんか?ふり返って見ましょう」と、その後に列挙される項目との関係について、具体例を二つ。
1.「子どもたちに『女らしさ』や『男らしさ』を押しつけるような子育てをしていませんか?ふり返ってみましょう」
項目のひとつ:「女の子だから雛祭りで祝う」
2.「あなたは悪気なくセクハラをしていませんか?ふり返ってみましょう」
項目のひとつ:「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」
>その項目は自分の行動を振り返り「自分はセクハラをしていないか」と考えるためには有用だけれど、項目に書かれた事が必ずしも常にセクハラだとは限らないというわけ。これは、ひな祭りの項目が「自分は男らしさ・女らしさを押しつける子育てをしていないだろうか」と振り返るためには有用だけれど、ひな祭りを行なうこと自体が必ずしも「男らしさ・女らしさ」の押し付けだというわけではない、ということに相当します。
なるほど。あなたは「女の子だから雛祭りで祝う」と「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」とを等価だと考えているのですね。なぜならあなたは、こう主張しているのです。
>文中の入れ替えるものが等価である場合のみにおいて成り立ちます。等価でない場合、詭弁もしくは言葉遊び以外のものではありません。
私たちは、「女の子だから雛祭りで祝う」と「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」とを等価だとする考え方には大反対ですので、あなたの論理を借用するなら「この二つは等価でないので、あなたの見解は詭弁もしくは言葉遊び以外のものではありません」と考えます。しかしあなたは等価だと考えているから、詭弁もしくは言葉遊びではないとの論拠になります。
そこで、あなたの主張をあなた自身の論理にしたがって、以下の文中の「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」を「女の子だから雛祭りで祝う」に入れ替えてみましょう。
>ある行為が望まれているかどうかは特定の相手との関係に依存します。一般論で言えば、「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」という行為はセクハラにあたる場合が多いでしょうが、個別の関係においてお尻を軽く触るという行為がかならず「望まれない」とは限らないので、絶対にセクハラだとは言い切れない。
→ある行為が望まれているかどうかは特定の相手との関係に依存します。一般論で言えば、「女の子だから雛祭りで祝う」という行為は押し付けにあたる場合が多いでしょうが、個別の関係において雛祭りを祝うという行為がかならず「望まれない」とは限らないので、絶対に押し付けだとは言い切れない。
>しかし、多くの場合それは「望まれない行為」であるから、やはり「あなたは悪気なくセクハラをしていませんか?ふり返ってみましょう」という表示があったとして、その下に「挨拶代わりに女子社員のお尻を触る」という項目が含まれていても自然です。
→しかし、多くの場合それは「望まれない行為」であるから、やはり「子どもたちに『女らしさ』や『男らしさ』を押しつけるような子育てをしていませんか?ふり返ってみましょう」という表示があったとして、その下に「女の子だから雛祭りで祝う」という項目が含まれていても自然です。
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