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ラクシュンさんとはかみ合わないかもしれませんが、ヤジの「文脈」について続きを書いてみます。
前は都議会ヤジの直接的な文脈について書きましたが、もっと大きな社会的文脈を考えるとどうなるか。件のヤジは簡単にいうと「少子化対策」関連の、女性による発言の際に起こっています。そこには、差別とか蔑視といった分かりやすい罵倒用語に収まりきらない文脈があるのではないか。
私の考えでは、「少子化対策」関連の意見や施策がほとんど例外なく「多産化推進計画」となっているところにヤジを生む文脈が作られます。女性は不妊治療や育児支援の施策を求めることが多く、それ自体は極めて正当な要求なのですが、多くがこの「少子化対策=多産化推進」の文脈に絡め取られ、いやそれどころかこの文脈を積極的に利用して要求がなされるため、「育児支援すれば子供を産む女性が増える」という幻想を作ってしまいます。一部の外国の例を挙げて、かの国ではかくかくしかじかのような働く女性の支援策を取ることによって出生率が回復した、日本も同じことをするべき、というふうな主張、よくありますよね。それはハラスメント・ヤジを生む文脈を強化する役割を果たしています。
こうして福祉政策と多産化推進がリンクされてしまっているため、女性政治家の求める育児支援策はイコール多産化推進策と見なされ、「まず自分が率先して産め」というふうな反応を呼び込んでしまう。
もちろん次のような反論は可能です。「自分が産めというが、社会的条件が整っていないことを私は指摘しているのであって、社会的条件を整えないまま『自分が産め』と要求するのは理不尽である。」
しかしこの反論は危険です。なぜなら、社会的条件が整ったあかつきには、「産め」という要求が正当化される、という論理を含んでいるからです。本来、プライベートな領域の選択について国会議員(であれ誰であれ)が「こっちを選べ」と要求することがおかしいのだから、上の反論は相手の土俵に乗ってしまった愚論です。
結局、不妊治療であれ育児支援であれ、当然必要な福祉政策群が「少子化対策」の名の下に政策化されていることが問題です。出産・子育て環境が良くなれば女性は次々子供を産むようになるというのが幻想であることを認識しないとダメでしょう。男も女も。
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