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なんだかんだいって、『ラカンは間違っている』(エヴァンス)と『ラカンはこう読め!』(ジジェク)を読んでますが(ジジェクは半分)、正解というか賛同するのはエヴァンスの方ですね。
何かねー、ジジェクは、シェークスピアの一節とか、どこかの画家の絵が、ラカンの○△の理論の好例だ!みたいなことをしきりに言うんだけど、その作者がラカンより前に死んでたりしたら目もあてられない、みたいな感じなんですよね。
でね、私には、何でラカンに対する批判本が溢れかえっている(らしい)世の中であるにも拘わらず、何故延々とラカン人気が続くのかという疑問が前からあるのですが(英語圏では無名らしい…ドイツはどうなのか?)、やっぱりその原因は論理学の公理(人間の思考の基盤?)にあるとしか思えないんですよねえ。
なんかねー、そこには「ならば」演算子が機械的に展開されているだけなんですよ。あくまでも直感ですが、この構造だったら何でもそこにブチ込めそうな気がするんですよ。
前にJosefさんが、同じ所をグルグル回らせていまうヘーゲルを、「熊野郎」と表現したことがあったと思うのですが、その構造に近いものがあるのかなー…。
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