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>バジル二世さん:
宮台的「再帰性」はたぶんアンソニー・ギデンズの用語を踏まえたものだと思います。
当たり前すぎて意識していなかったもの(=前提だったもの)を、意識化し、思考の対象にする様、と考えていいでしょう。
欧米の言語にはmyselfのような「再帰代名詞」というものがあります。
I looked at myself in the mirror.(鏡に映った自分を見た)
この例文では、主語「私」の「見る」という行為が主語と同一者である「私自身」に向かっています。行為が主語の外部に向かうのではなく、いわば主語自身に「再び帰っていく」。
再帰性という語はこういう文法と関連があるので、日本語で考えていると「再帰?なんじゃそれ?」となりますが、分かってしまえば「なーんだ」という程度の概念です。宮台氏が衒学的に定義するから難しそうにみえるだけ。
紅葉を見て「きれいだな」と思っているだけなら再帰的ではありません。「あれが紅く見えてしまう私の目はどうなっているのだ」と見ている自分自身(の目)に意識や思考が向かう時、その人は再帰的状態にあります。
「ジェンダー」というのは、性別を自然なものとする見方から一歩引いて、「性別を自然なものとする見方」そのものを思考対象とし、私たち社会が作ってきたものであることを示そうとする概念です。その意味で「ジェンダー」は再帰的です。
しかし、それに「フリー」を付けた「ジェンダーフリー」は、多くの場合「かくあるべし」という規範・要求として使用されてきたと思います。
>推奨されるべきは「社会的性別に関わる再帰性の自覚」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、こうしろ」という直接的メッセージは本来、出てきません。
これは詐欺的な嘘でしょう。
バジル二世さんご紹介の「カリントボンボン」のブログ主さんも、以下の通り、ジェンダーフリーの「ああしろ、こうしろ」に忠実に従っています。
>それ以来ジェンダーフリー派のフェミニストとして生きているので、当然、子供が生まれた時も、できるだけジェンダーフリーにやろう、と思って、女の子だけどあんまりピンクの服とかも着せず、ユニセックスなネイビーとかグレーの服を着せていたりして、[…]
>大事なのは本人の持つ興味を肯定してやることであって、子供の性別に関わらず、お人形に興味を示している子はお人形で遊ばせたらいいし、車に興味を示している子は車で遊ばせたらいい、ということが真のジェンダーフリーであろう。
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