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先の投稿で藤原正彦氏の「効率や利潤」という言葉を「数値化可能なもの」と言い換えましたが、そうした数値化への過度な傾きは、たとえば大阪都構想をめぐる住民投票後に行われた橋下大阪市長記者会見にも見ることができます。
橋下市長は敗北の弁として「大変重く受け止めます。僕が提案した大阪都構想、市民のみなさまに受け入れられなかったということで、やっぱり間違ってたということになるのでしょうね」と語っています。
ttp://logmi.jp/59213
この弁では、正しいか間違っているかが、「数」で評価されています。微差であっても、都構想を住民が否定したことは厳然たる事実として認めなければいけないが、都構想が諸問題の解決や未来のために良いものであっかどうかは、投票の結果とは関係ありません。ところが、橋下氏のような言い方が、「おかしい」と捉えられるのではなく「潔い」と捉えられるところにも社会をおおう数値化信仰を見て取ることができるでしょう。それは民主主義を「数の論理」と同一視する原始的な思考への退化でもあります。
昨年のSTAP細胞事件の主役・小保方氏が、正体がばれるまで「ふるい」にかけられることなく「出世」していったのは、チェック機能が働かなかったからです。なぜ働かなかったか。それは大学教員の教育実績が「何人の大学院生を指導しているか」「何人の博士号、修士号を出したか」といった数値によって測られるようになったからです。いきおい教員は学生の研究の「中身」より「 数」を追い求めるようなる。教員を「評価」する人たちはド素人ですから、いくら教員が「中身」を力説しても馬耳東風です。小保方氏の指導教員は年に6人もの博士号を出した年もあったりして、実質的な指導はほとんど期待できない状態でした(実際、実質的な指導はしていなかったことがその後の調査で明らかになり、また同じ研究室の複数の博士号取得者がコピペ論文のオンパレードだったことまで明るみに出ました)。
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