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私が聞いたり読んだりした譲位問題にかかわる僅かな言説の中でいちばん心に刺さったのは元最高裁判事の藤田宙靖氏のインタビューでした(朝日新聞1月18日掲載)。
陛下が大切にしている「象徴としての務め」について、あれほどまでやる必要はないという声もあるが、との問いかけに対して、藤田氏はこう言います。
>憲法によって、天皇は国民統合の象徴と位置づけられました。しかし、象徴の地位にある者が具体的に何をすべきかの明確な定めはなく、陛下は自らそれを探り、判断し、実行しなければならなかったのです。ある法的地位にあることに伴う必然的な行動でした。それを、憲法は何も要請していないのに勝手に仕事を広げていったなどと批判はできません。
>そうして積み重ねられた陛下のおこないを、国民の多くは天皇の公的行為の一部として支持してきました。市井の人びとと直接、積極的に触れあい、戦災や震災で亡くなった人の慰霊・追悼をし、現地で被災者の手をとって寄り添う。その姿は、国民主権の下で民主制を採用する憲法にマッチするものでした。国家はさまざまな「罪」を抱えこんだうえに成り立っていますが、陛下は「象徴」として、それを自ら原罪として背負い、いわば贖罪(しょくざい)の旅を続けてこられたように、私には見えます。
生身の人間が「象徴」としての役割を果たすとはどういうことか、この難題を陛下ほど考え抜き、行動しながら考え続けた人は他にいないのではないかと思います。「陛下にはお祈りしていただくだけで充分なのだ」と言う人もいますが、私もまたそういう気がしている一人なのですが、おそらく当事者でないがゆえに言える気楽な言葉なのでしょう。
藤田氏は皇室会議の議員も務め、陛下とは面識がありました。こんな経験も語っています。
>最高裁判事を退任する際、ごあいさつする機会がありました。退官後何をするかについてご質問がありましたので、「どこにも勤めず、やりたいことをやろうと思います」とお話ししたところ、陛下が「あなたのような人がそれではいけないのではないですか」とおっしゃったのには恐縮しました。ご自身の一存では辞められない、天皇という地位の厳しさを垣間見たような気がいたします。
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