仏教関係専門掲示板
戻る  □ HELP  □ 新着記事  □ 新規投稿  □ ツリー表示  □ 記事全文表示  □ 掲示板設定  □ SEARCH   □ 過去ログ ソニースタイル
親記事5件分を全文表示
199/ 幣帛班給制度と顕密仏教体制について
・投稿者/ 教えてください
・投稿日/ 2004/03/05(Fri) 14:48:21
・IP/ 202.209.212.100



200/ 書籍紹介
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2004/03/05(Fri) 20:00:14
・IP/ 4.60.158.54



22/ 『弥勒の「救い」と約束の日』(皐月さんの卒論)
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/30(Wed) 16:28:53
・URL/ http://www2.spitz.net/amou-field/hatake/bukkyou/mitry1.html
・IP/ 4.60.144.241

    サイト「皐月畑」の管理人・皐月さんの卒論『弥勒の「救い」と約束の日』、面白いです。
    大小両乗における弥勒信仰の発展と関連経典の成立、それらの歴史的推移などについて、経典などや遺跡の出土品などに基いて論じられてます。
    兜率浄土派と極楽浄土派に関する記事もまた勉強になります。
    個人的に申し上げますと、その仏教の捉え方には私自身共感するところが少なくなく、そして研究態度もまたどこかしらご自分の限界を認識されているという意味において特に、謙虚で模範的なものを感じさせられました。

    こちらの掲示板にいらっしゃる方にお勧めします。
    ぜひ一度ご参照ください。
    リンクURLをクリックすればジャンプします。



    皐月さん

    私などはもともと弥勒関連には興味がある方ではなかったのですが、これをきっかけに世界を少しまた広げられそうです。
    ありがとうございました。
    今後もお世話になると思いますが、よろしくお願いします。



32/ ヴァイローチャナ転輪聖王
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/08/05(Tue) 16:53:29
・IP/ 4.60.144.241

    あれから、手元にある『愛と平和の象徴・弥勒経』(渡辺照宏著/筑摩書房刊/昭和四十一年/当時四五〇円)という本を拾い読みしているのですが、興味深い記事を見つけました。

    ゴータマ・シッダールタのブッダとしての伝記資料として重要なサンスクリット文『マハーヴァストゥ(一・五九)』、また同文の漢訳『仏本行集経(巻一/大正蔵三、六五六中)』によると、マイトレーヤはその前世において「シッダールタが菩提心をおこすより四四劫を遡ったスプラバーサ(善光)という如来がいたころ、そのもとでヴァイローチャナという転輪聖王として将来に仏道成就を志し、最初に善根をうえた」とあるそうです(一六二頁)
    このヴァイローチャナという名は、ご存知のように華厳経や大日経の教主のそれと同じなのですが、このことについて同書の著者は「マイトレーヤが初発心の時にこの法身仏と同じ名であったことは注目に値する」とだけ書いてます。
    これがどういう意味で「注目に値する」のか興味あります。
    同書は刊行されたのが昭和四十一年ということなので、現在では研究が進んで何か分かっているのではないかなどと思ってしまいます。
    ちなみに、『賢愚経』中の同種の前世譚における転輪聖王名はダルマルチ、『ディヴヤ・アヴァダーナ』ではダナサンマタというそうです。

    弥勒の起源が古代ペルシアのミトラス神にあるらしいという説は私でも知っているので既に常識だとは思いますが、ヴァイローシャナがその起源もしくは発展に関与しているという話はまだ聞いたことがありません。興味深いです。

    上のように、既にご存知かと思いつつも、また何かありましたらご報告申し上げます。

52/ ヴァイローチャナ=アフラ・マズダー=ミスラ=弥勒
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/11/09(Sun) 08:36:34
・URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/intro/diary0311.html
・IP/ 4.60.157.205

    弥勒の起源がミスラにあるらしいという説は有名で、それは私でも基礎知識として知っていたことですが、一方、ヴァイローシャナの起源がゾロアスター教のアフラ・マズダーにあるという説も、またよく知られた話なのではないかと思います。
    古代イランの民族宗教においてミスラ神はもともとアフラ・マズダーと強く結びついていて、一神教を宣揚したザラスシュトラ(ゾロアスター)によって一度はその関係を断たれたとはいえ、彼の死後には後継者たちによって再び下位の神霊として採り入れられて、やがてはアフラ・マズダーと同一の神として習合し、冥府のチンワト橋において死者の霊を裁く神となったといいます。

    つまり、この

    「ヴァイローシャナ=アフラ・マズダー=ミスラ=弥勒」

    という図式から、大日如来と弥勒の起源が同じものであることが伺い知れるように思います。もしかすると『マハー・ヴァストゥ』の記述は、この事実に何らかの形で依拠したものだったのかも知れませんね。

89/ 学生時代の講義ノートから
・投稿者/ 大閑道人
・投稿日/ 2004/01/06(Tue) 13:10:08
・IP/ 219.164.81.244

    昭和48年、梵語梵文学序説(大地原豊教授)から

    ミトラ(=ミスラ)は、梵語上の意味は「友人」、つまり、アフラ=マヅダの「同盟者」のことだそうで、弥勒=マーイトレーヤは、ミトラの派生語で、「ミトラに寄るもの(あぁ、この掲示板が求める学的保証については、記憶に従って書き込んでいるので、あやふや・・・ゴメンナサイ)という意味。

    ミトラは軍神として、尊崇された。

    これが、ローマの軍人に流行し、紀元前後ころのローマは、キリスト教とミトラ教とが、ローマの国教化を争った、

    ・・・と習いました。

91/ なるほど。
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2004/01/06(Tue) 15:08:08
・URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/
・IP/ 4.60.158.54

    それは学研から出ている『古代秘教の本』に載っていたので知ってはいたのですが、昭和四十八年の段階で分かっていたことだったんですね。
    わざわざノートを引っ張り出していただいて、ありがとうございます。
    参考になります。



11/ 空殻の立場について
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/26(Sat) 00:19:12
・IP/ 4.60.144.241

    一般掲示板で興味深い書き込みがあったのでこちらにも転載します。



    [22] ご案内 投稿者:みのる 投稿日:2003/07/25(Fri) 21:44:16
       空殻さん、こんばんは。
     「彼女募集中」とは、あなたが真正の仏教徒ではないのにガッカリしました。
     それはさておき、あなたのご高説を伺いたくて、Yahoo!掲示板、「仏教について」No.4125に折角カキコしたのに、まだご覧戴けてないようですね。一応ご案内を。

    ---------------------------------------------------------------------
    それはご愁傷様(苦笑) 投稿者:空殻 - 2003/07/26(Sat) 00:48:00
    おはようございます。
    朝一番、起きて掲示板見たら面白い記事があるのでとても喜んでます。
    みのるさん、書き込み、ありがとうございました。
    さて、私はこれまでに、一度として自分のことを真正の仏教徒、もしくは真正でなくとも仏教徒であるなどと申し上げたことはございませんし、仏教徒でないとも申し上げておりません。今後もそういった記述は避けるつもりですのでご了承ください。
    したがいまして、私が「真正の仏教徒」である、もしくは「真正の仏教徒であると主張している」と仮定して「真正の仏教徒とはこうあるべきである」とご自分の価値観を勝手に相手に押し付けて、しかも勝手にガッカリされても困ります。こちらはただ学術的に仏教の研究をするサイトであって、私情をはさんで仏教を代弁するような場所ではない、ということをどうかご理解いただきたい。
    それにしても、彼女募集中のどこが悪いのか(それが悪い、ということでがっかりされてるんですよね?)、非常に不可思議です。こちらこそ、みのるさんのご高説を伺いたいですね。



12/ 茂木みのるさんの投稿
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/27(Sun) 13:52:20
・URL/ http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=ja965a4ka4da4a4a4f&sid=1835217&mid=4125
・IP/ 4.60.144.241

    以下は、茂木みのるさんが私の「高説」を聞きたいがために、Yahoo掲示板に残したとされる投稿です。興味深いのでこちらに転載します。まずはご参照ください。




    仏教に引導を! 2003/ 7/23 17:46 メッセージ: 4125 / 4147 投稿者: mminoljp (男性/川崎市多摩区)

     仏教を他の宗教と区別する重要な特徴を短い韻文でつづったものを「法印」と言い、四つあって「四法印」と言います。つまり仏教の根本義というべきものです。それはNo.3814に書きました、「一切皆苦 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」 です。
     つまり、苦悩に満ちた輪廻のこの世界から解脱する修行法です。仏教ではこの世界は、十二の因縁という原因と条件が相寄って、「縁起の法」によって現象として仮の姿として現れているに過ぎず、恒常・不変の実体というものはない。「一切皆空」である。それを恒常・不変の実体と誤解して執着した欲望から苦悩が生ずるのであるから、悟りへの道は、
    仏教の示す実践・修行(八正道)を通して、執着する欲望を完全に止滅させれば、静かな安らぎが訪れるというのです。

    (1) ところで考えてみるまでもなく、今から二千数百年の昔、しかも熱帯のインド。厳しい自然の中で牛馬の如くに労働しても、満足な食事もできず楽しみ全くなし。悲惨な生活を強いられれば、
    人々が輪廻転生を恐れ離脱を望むのは当然のこと。
     翻って物質的豊かさを極めた、山紫水明・気候温暖の現在の日本。殆どの人達は死にたくない、又生まれ変わりたいものと願っているのではないですか。あの大ペテン師の飯田何とかなんかは、この次どこに生まれ変わるかと想像するとワクワクするとさえ言っている。輪廻転生からの解脱は、この日本には無縁のこと。

    (2) 今では全ての国民は、子供の誕生を心から祝福します。そして誕生日を家族みんなで祝います。(皆さんのご家庭ではどうですか?) そして世界一長寿国になったことを、喜んでいます。この国では、「生」は既に祝福の対象であって、「苦」ではなくなっています。

    (3) 又皆さんの日常生活を振り返ってみましょう。欲望を止滅して生きていけますか? この世で実現したい夢、希望、願望があって初めて、現在や将来の生活設計ができるのでしょう? それに執着するな、ということは死ねということでしょ。廃人になれ、ということでしょ。
    欲望止滅は現代社会には無縁のこと。

    (4) では、人生苦の解決はどうか? 現代人は感情豊かになるように教育され、感情表現技術も文芸、音楽、絵画、演劇・・・など多方面で発達しています。苦しい時、 悲しい時には、思いっきり涙の涸れるまで泣くか、芸術・学問などでカタルシスをするより他ないのです。考えてもごらんなさい、感情を止滅させて肉親の死に接して涙も流さないような奴は化け物であって付き合えるものではないでしょう。

    (5) それに、釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎたために、幸いにして涅槃に達し得た暁に、さて何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした。つまり早い話が、静かな安らぎの訪れた人達が只ゴロゴロしている、言ってみれば特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけという結果になりました。(京都やその他の坊主どもを見ればご納得でしょう。)

     総まとめをしますと、あれやこれやで仏教の教えは二十一世紀以降に全く用を成さないものなのですよ。引導を渡して舞台から消えてもらうべきと愚考していますが、如何なものでしょうか?
    (これは qookaku さんの 4098 に対する返信です)





    ちなみに、下記は私による親記事です。




    はじめまして。 2003/ 7/18 14:38 メッセージ: 4098 / 4148 投稿者: qookaku (26歳/男性/カリフォルニア)

    はじめまして、仏教文献学専門サイト『密厳浄土』の管理人で空殻と申します。
    仏教に関する議論のお好きな方がたくさんいるようなので、ついつい書き込んでしまいます。
    以後、お見知りおきを。
    (これは horon29 さんの 1 に対する返信です)

13/ で、再び私の立場ですが
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/27(Sun) 14:54:42
・URL/ http://6927.teacup.com/mminoru/bbs
・IP/ 4.60.144.241

    下記は、みのるさんの投稿に対する私の正直な分析の結果です。
    これを読まれれば私の立場、ひいては同サイトの方針についても、そこそこご理解いただけるのではないかと期待しております。



    客観的に申し上げますと、みのるさんの主張はまず論法的に自己崩壊している上、価値観からいってもきわめて一面的で視野が狭いです。
    ただし、個人的に感想を申し上げますと興味深い見解だと思います。

    さて、なぜ論法が破綻し、一面的で視野が狭いかを列挙すると次のようになります。

    $(C(g(B「殆どの人達は死にたくない、又生まれ変わりたいものと願っているのではないですか。〜解脱は日本には無縁」 についてですが、もし仰るとおりならば少なくとも仏教における「人はアーラヤを楽しむ」という主張は間違っていないわけですね。 (講談社学術文庫刊・玉城康四郎著『仏教の根底にあるもの』の29頁によると、Ariyapariesana-Sutta[聖求経、しょうぐきょう]という仏典に「世間の人はアーラヤを好みアーラヤを楽しみアーラヤを喜ぶ」とあるそうです。ちなみに、この記述には「そのような人々にとっては、この道理はとても理解できない」という言葉が続きます)
    また、おっしゃるところの「殆ど」は、数字で表すことができるわけでもなく証拠も不十分です。あくまでもご主張に即した希望的憶測の域を出ません。しかもそういった時点で「すべての人がそうであるとは限らない」ことを主張してしまってます。
    つまり、「かならずしも日本には無縁ではない」 とおっしゃっておきながら「無縁である」 と主張しているわけです。
    矛盾してますね。

    $(C(h(B「今では全ての国民は、子供の誕生を心から祝福します。そして誕生日を家族みんなで祝います。(皆さんのご家庭ではどうですか?) そして世界一長寿国になったことを、喜んでいます。この国では、「生」は既に祝福の対象であって、「苦」ではなくなっています。」 についてですが、

    ▽「全ての国民は子供の誕生を祝福します」 →残念なことにそうとは限りません。
    ▽「誕生日を家族みんなで祝います」 →残念なことにそうとも限りません。
    ▽「長寿国になったことを喜んでいます」 →そうでない人もおそらくいるでしょうね。

    「みんな〜である」 という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、そして過度で軽率な概括が目立ちます。また、みのるさんは「生=苦」の状況に置かれた恵まれない国民の存在を一切考慮に入れていない、ということがわかります。
    このことから、この主張$(C(h(Bが一面的で偏ったものでしかないことが分かり、ひいてはみのるさんという人物の「思いやりのなさ」あるいは「想像力の欠如」を伺い知ることができます。

    $(C(i(B「欲望を止滅して生きていけますか? 」 についてですが、仏教を「欲望を止滅する教え」であると決め付けるのは早計だと思います。もう少し落ち着いて学習されることをお勧めします。

    $(C(j(B「人生苦の解決〜芸術・学問〜感情を止滅」 についてですが、上のように仏教の人生苦の解決を「感情の止滅」であると決め付けるのもまた早計ですね。現に、仏教という流れは、多くの芸術を輩出しております。

    $(C(k(B「それに、釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎたために、幸いにして涅槃に達し得た暁に、さて何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした。つまり早い話が、静かな安らぎの訪れた人達が只ゴロゴロしている、言ってみれば特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけという結果になりました。(京都やその他の坊主どもを見ればご納得でしょう。)」 ということについてですが、次のようなことが挙げられます。

    ▽「釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎた」 →物理的に(もちろん精神的にも)証明不可能な憶測で、しかも個人的知識と価値観に基づいた偏見です。
    ▽「(釈尊は)涅槃に達し得た」 →証明不可能な憶測です。
    ▽「(釈尊は)何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした」 →証明不可能な上に「欠点だった」と決め付けてます。
    ▽「(釈尊は)特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけ」 →証明不可能です。しかも、ゴータマシッダールタに始まるとされる仏教という流れは、今日にいたるまで各国の文化や芸術に多大な影響を与えてます。これは少なくとも私にとっては有意義な現象です。

    これらのことで、みのるさんが憶測でものをいっているか、もしくは読んだり聞いたりした知識をただひたすら鵜呑みにしているかどちらかであることが分かります。その結果を事実だと思い込んで勝手に自己の範疇の中で物事を判断し、決め付けて主張を展開しているのが分かります。

    また、歴史的観念についても次のようなことがいえます。

    ▽「京都やその他の坊主」 →古代インドにおけるシッダールタの話で、いきなり条件がまったく違うはずの日本の僧侶を例にとっている、つまり現代日本と古代インドの僧団が等価であると仮定していることが分かります。このことから、歴史的観念が欠如しているか、もしくは混乱しているものと思われます。しかもみのるさんは、$(C(g(Bの主張で「今から二千数百年の昔、しかも熱帯のインド云々」と現代日本と古代インドの人の在り様の違いをご自分で強調しています。
    これらの事実から、みのるさんという人物は歴史的観念を持とうととりあえず努力してはいるがそれをこなすことができず、結局ご自分の中に矛盾を残していることが分かります。


    以上において、みのるさんの論法が根本的に破綻していて、また論点や論拠が偏っているということがお分かりになったと思います。
    したがいまして、「仏教は21世紀には全く用をなさないから消えてもらう」という結論もまた、「仏教が用をなしている」もしくは「用をなしうる」ことが判明した時点で自動的に破綻します。

    この「仏教がこの世から消える」ということが果たして善いことなのか悪いことなのか、必要なのかそうでないのか、またもしくは、可能なのかそうでないのか、などといった荒唐無稽なことは私には分かりません。
    ただ、少なくとも、「用をなさないから消えてもらう」という言いまわしには道徳観念の欠如を感じざるを得ません。
    それが非常に残念です。


    加えて文体の運びについてですが、これはなかなか上手いです。
    まず常識的もしくは専門的な知識から入って話相手に自分(その知識や主張)の正統性を信じ込ませ、それに乗じてまくし立ててうまく丸め込んでしまおうとする方法を取っているように見受けます。
    強い自己顕示欲を髣髴とさせる修辞的論調、そして少々辟易とさせられるような荒唐無稽で極端な発想などが私のような者にはとてつもなく胡散臭く思えてしまうのですが、あまりこういったことに免疫のない方なら珍しさと勢いに呑まれてつい頷いてしまうかも知れません。
    そんな迫力に満ちた、強引かつエンタテイニングな「主張の仕方」なのではないでしょうか。
    ただし、それを武器に、ついうっかり誤まって人をコロリと騙してしまうことのないようお気をつけください。



    みのるさんが私に期待していたのがどのような応えであるかは分かるような気がするのですが、私の立場としては、あくまでも仏教を批判するわけでもなければ応援するわけでもありません。
    また上の記述を読む限りは、あたかも私が仏教を弁護しているように見えると思いますが、そういうわけでは決してなく、私はただみのるさんのご投稿に対して、私の「空殻」としての立場とは何かを暗に交えながら、分析と若干の意見を述べさせていただいただけですのでどうかよろしくご了承ください。

    最後になりますが、みのるさんの今後のご活躍を期待します。
    先日のあの唐突でしかも喧嘩腰なご投稿にはおどろかされましたが、私は別に気にしておりませんのでご安心ください(^^)
    ただ、同じようなことを他でされると「不躾である」「無礼である」もしくは「危ないヤツである」などと判断され、かなり迷惑がられるのではないかと憂慮します。

    どうかくれぐれも、ご注意ください。

25/ Re[1]: で、再び私の立場ですが
・投稿者/ みのる
・投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:32:01
・URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/
・IP/ 211.123.224.107

    空殻さんへ−1
     のっけから失礼ですが、いろいろと的外れなご指摘、有難うございました。いちいち反論する気も起きません。
     それはそうでしょ。私が「仏教に引導を!」をわざわざあなたにご案内して期待した答えは、(私の早トチリでしたが)<仏教文献学専門家>としての広く深い学識から、「人生皆苦」(>「みんな〜である」 という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、ですね?)や輪廻転生からの解脱の現代的意義。そして又、それらを根本義とする仏教が、
    >「用をなしている」もしくは「用をなしうる」
    とするなら、いかなる理由、根拠からですか?であることは明らかだと思っていたのです。(そのことは私が、Yahoo!掲示板で「No.1に対する返信」にしないで、わざわざあなたのNo.4098に対する返信」にしたことからわかるだろうと考えたのです。)
     そして又、そのお答えがスジが通るものであったら、勿論私は喜んで自説を撤回するつもりでした。正しさが常に重要ですから。
     それなのに、私のご案内をどう血迷って取り違えたのか、>唐突で喧嘩腰 と邪推して、反論のための枝葉の揚げ足取りに執着したので、肝心の本題には一言も触れず仕舞ですから。当て外れもいいところでした。

     ただ二つだけ申し述べましょう(一つは別記)。
     そもそも宗教とは、「不合理であるから信じるのではなくて、不合理であるが故に信じる」ものでしょ。それなのに、
    >物理的に(もちろん精神的にも)証明不可能な憶測、
    と、宗教関係分野の方から、「証明不可能」の言葉が出たのには、強い衝撃を受けました。
     宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。(余計なお世話? 私って思いやりがあるでしょ。(^^))

     以下に「用をなしうるや?」にチョット補足します。
     典型例では、米国大統領の就任式で、聖書に手を載せて宣誓しますね。キリスト教は少なくともこういう面では生きていて、人間の行動の規範となっていることを垣間見させます。又イスラムでは、天国へのパスポートとして、自爆テロが世界各地で多発しています。民衆の現実生活の中に、イスラムの教えが息づいているのがわかります。
     翻って仏教は? タイ、スリランカなどの中・後進国で日本人が小乗と軽蔑する南方仏教が細々と生きているだけ。仏教発祥の地・インドでは、仏教信者数約470万人、全人口のわずか0.7%、しかもその信者達は所謂不可触賎民であって、現在のインドにあって社会的影響力に乏しいという惨状。
     仏教は確かに、過去には多大の恩恵を与えてくれたのでしょうが、これからは果たして如何なものでしょうか。ヒョットして万里の長城? ましてや、「人生皆苦」や「空」ではね。

27/ 残念ですね。
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/31(Thu) 14:46:02
・IP/ 4.60.144.241

    >のっけから失礼ですが、いろいろと的外れなご指摘、有難うございました。いちいち反論する気も起きません。

    どういたしまして。
    みのるさんの早とちりと偏見にもとづく的外れなご期待に添えなかったことが残念ですが、あなたとの出会いは同サイトにとって多少有意義であったと、ある程度感謝しております。
    ただ、すでに「空殻の立場」と「同掲示板の方針」は充分述べてきましたし、みのるさんもご自身が聞きたがっていたはずの私の「高説」とやらに耳を貸す様子もなく、ただひたすら自己正当化と反論をまくしたてる、等といった事情から、あなたとの議論もこちらでの意味を失いつつあるように思うようになりました。
    したがいまして、今後あなたがこちらの方針に障るような書き込みをされた場合、即刻「荒らし」であるとして書き込みを禁止させていただきます。
    ご理解ください。

    >「人生皆苦」は「みんな〜である」という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、ですね?

    どうでしょうか。
    これは推論ですが、それはもしかすると「人間は皆、時とともに老いて死ぬ」ということが「みんな〜である」ということでありながら決め付けでなく「事実」であることと関係があるのではないでしょうか。
    少なくとも、それはみのるさんがおっしゃるような「日本国民は今世紀において皆もれなく幸せである」という類の個人的価値観とは、根本的に性質が違うように見受けます。

    >人生皆苦と輪廻転生からの解脱の現代的意義。

    その質問を私に対してされたのはまことに的外れでした。
    前にもいったように、少なくとも現時点では私は仏教の代弁者や弁護者ではなく、一愛好者兼一求道者としての立場を取っております。つまり、人生皆苦も輪廻転生もあくまで一可能性ととらえており、鵜呑みにしておりません。

    >そして又、それらを根本義とする仏教が「用をなしている」もしくは「用をなしうる」とするなら、いかなる理由、根拠からですか?

    それにつきましては、『で、再び私の立場ですが[13]』の再読を希望します。
    もう少し頭を冷やしてから、注意深くお読みください。

    >であることは明らかだと思っていたのです。(そのことは私が、Yahoo!掲示板で「No.1に対する返信」にしないで、わざわざあなたのNo.4098に対する返信」にしたことからわかるだろうと考えたのです。)

    何が明らかなのかが不明です。
    また、私のNo.4098に対して、しかも誰に「宛てる」でもなく返信していただいても、私はYahoo!掲示板にあまり出入りしませんし、勝手にそのように思って期待していただいても困るというものではないでしょうか。

    >そして又、そのお答えがスジが通るものであったら、勿論私は喜んで自説を撤回するつもりでした。正しさが常に重要ですから。

    『で、再び私の立場ですが[13]』を再読ください。
    みのるさんのご主張が、「仏教は不要だから消えろ」という結論にいたる前に破綻しているため、その間違った結論をもとにした議論が発展し得ないことは明らかです。
    ただ、「仏教は不要であるから消えろ」というあなたと「仏教をかならずしも信仰するわけではないが、仏教が好きで教えの内容やその歴史についてもっと知りたい」と願う私とでは、私が仏教徒として自認し反駁しない限り、平行線を辿るだけなのではないかと憂慮し始めてます。

    >それなのに、私のご案内をどう血迷って取り違えたのか、唐突で喧嘩腰と邪推して

    想像してみてください。
    初めて会った見ず知らずの相手からいきなり面と向って「お前のことを期待してたのに、取るに足らないヤツだったんだな、ガッカリだよ」などといわれたとします。
    これでお分かりになられなければ、あなたは救いようがありません。

    また、私のことを「真正の仏教徒と自認している」と強引に判断した上で「仏教などなくなった方がよい」といわれているところから、みのるさんという方が「おそらく私に対してなんらかの敵意・悪意を抱いている」ことを伺い知るのは必然なのではないでしょうか。
    みのるさんには、どうも礼儀といえるものが欠如しているようにお見受けします。
    警告させていただきます。
    どうかご自分の非を反省し、お気をつけください。

    >反論のための枝葉の揚げ足取りに執着したので、肝心の本題には一言も触れず仕舞ですから。当て外れもいいところでした。

    あの分析を「枝葉の揚げ足取り」としてしか見なかったということから、みのるさんが結局ご自分の持論である「仏教は用をなさないから消えろ」に執著し、それしか目に入っていない、ということが分かります。
    私は枝葉を指摘したのではなく、「結論を成り立たせる基本が間違っているから結論自体が説得力を失うのですよ」となるべく分かりやすい形で丁寧にご報告申し上げたまでです。
    ご自分の文体の本質を「枝葉である」とおっしゃった時点で、みのるさんは、結論へ至る理由などどうでもよい、と自分で自分の主張を無効にしています。
    『で、再び私の立場ですが[13]』における私の私情抜きの分析を再読ください。

    >宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。

    さて、この記事においてみのるさんは仏教はあくまでも信仰であって科学ではないと決め付けてかかっていますが、果たしてそうなのでしょうか。
    モンチーさんのご投稿にも引用されていましたが、ダライラマ氏のように「仏教は宗教・科学のどちらにも属さない」と主張する方もいます。私も実はそれと同感で、仏教が信仰でなければならぬとは思っておりません。
    ただ、仏教には未知の部分も多くあり、また納得のいかないことも多いため、なるべくその代表者を気取って代弁をするような行為は慎みたいのです。
    とりあえずこの時点では、仏教をただの信仰であるとするのは早計なのではないかとだけ申し上げておきます。

    >失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。(余計なお世話? 私って思いやりがあるでしょ。(^^))

    おっしゃるところの「進む道」というのは「仏教を勉強すること」を意味するのでしょうが、それは別に奇跡云々を信じなくても問題なく行ない、楽しむことができます。
    むしろ、研究というものは個人的な感情や信仰に捉われることなく、公正に行なわれるべきではないかと思っております。

    >「用をなしているか」・・・典型例では、米国大統領の就任式で、聖書に手を載せて宣誓しますね。キリスト教は少なくともこういう面では生きていて、人間の行動の規範となっていることを垣間見させます。

    それは果たして必ずしも素晴らしいことなのでしょうか。
    また、なぜそれが素晴らしいといえるのでしょうか。
    荒唐無稽な問いになりますが、みのるさんがおっしゃるように仮に「仏教に消えてもら」ったとして、日本にはアメリカにおけるキリスト教のような宗教現象が起り得るのでしょうか。
    「仏教には消えてもらおう」と主張した上でアメリカにおけるキリスト教を「用をなすもの」として例にとっているくらいだから、その程度のビジョンはおありなのでしょうね。
    世の中はあなたが思うほど単純にできているわけではないのですよ、みのるさん。

    >又イスラムでは、天国へのパスポートとして、自爆テロが世界各地で多発しています。民衆の現実生活の中に、イスラムの教えが息づいているのがわかります。

    この記事から、みのるさんが「自爆テロ」の推奨者であることが分かります。
    用さえなしていれば自爆テロさえ容認するわけですか。
    非常に残念です。

    ところで、具体的にいって「(宗教が)用をなす」とは一体どういうことなのでしょうか。
    上の二例を見る限りでは、「国民の行動規範になる」ことであり、「現実生活の中に教えが息づいている」ことがそういうことらしいのですが、アメリカなどは特に移民の国なので、仏教や道教、カトリック、モルモンなどを含め非常に多くの宗教宗派がせめぎあってます。そういう状況において、本当に「キリスト教がアメリカ国民の行動規範である」「用をなしている」といってしまって差し支えないのでしょうか。
    疑問です。

    >翻って仏教は? タイ、スリランカなどの中・後進国で日本人が小乗と軽蔑する南方仏教が細々と生きているだけ。仏教発祥の地・インドでは、仏教信者数約470万人、全人口のわずか0.7%、しかもその信者達は所謂不可触賎民であって、現在のインドにあって社会的影響力に乏しいという惨状。

    みのるさんが大乗仏教の分布をまったく無視しているところから、情報が明らかに一面的で偏っていることが分かります。
    また、よく見てみると

    $(C(g(B「広範囲に分布すること」か
    $(C(h(B「多くの人口に信仰されること」そして
    $(C(i(B「社会的影響力があること」

    が、先述の二項に加えた「宗教が用をなすということ」の条件だとみのるさんが主張しているのが分かります。
    これが仮に正しいとして、「広範囲に分布」せず、「多くの人口に信仰」されず、「社会的影響力」がなかったり弱かったりしたら、本当にその宗教は「用をなさない」のでしょうか。つまりみのるさんがいうように「消えてもらおう」ということになるのでしょうか。
    仏教は東南アジア、東アジア、チベットを中心として約五億人、キリスト教はヨーロッパと南北アメリカを中心に約十七億、イスラム教は西南アジア、東南アジアとアフリカを中心におよそ十億、ちなみに神道は日本に一億人程度ということですが、そうすると、仏教は「用をなす」けど神道は人口だけでいったらどう考えても「用をなさない」ことになってしまいますね。

    >仏教は確かに、過去には多大の恩恵を与えてくれたのでしょうが、これからは果たして如何なものでしょうか。ヒョットして万里の長城? ましてや、「人生皆苦」や「空」ではね。

    さあ、どうでしょう。
    私には分からないとしかいいようがありません。

    先にも書きましたが、「仏教は不要であるから消えろ」というあなたと「仏教をかならずしも信仰するわけではないが、仏教が好きで教えの内容やその歴史についてもっと知りたい」と願う私とでは、私が仏教徒として自認し反駁しない限り、平行線を辿るだけなのではないかと憂慮し始めてます。



    下記は親記事です。混雑してきたのでこちらにも付けておきます。



    [25]  RE:で、再び私の立場ですが
    □投稿者/ みのる
    □投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:32:01
    □URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/


    空殻さんへ−1
     のっけから失礼ですが、いろいろと的外れなご指摘、有難うございました。いちいち反論する気も起きません。
     それはそうでしょ。私が「仏教に引導を!」をわざわざあなたにご案内して期待した答えは、(私の早トチリでしたが)<仏教文献学専門家>としての広く深い学識から、「人生皆苦」(>「みんな〜である」 という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、ですね?)や輪廻転生からの解脱の現代的意義。そして又、それらを根本義とする仏教が、
    >「用をなしている」もしくは「用をなしうる」
    とするなら、いかなる理由、根拠からですか?であることは明らかだと思っていたのです。(そのことは私が、Yahoo!掲示板で「No.1に対する返信」にしないで、わざわざあなたのNo.4098に対する返信」にしたことからわかるだろうと考えたのです。)
     そして又、そのお答えがスジが通るものであったら、勿論私は喜んで自説を撤回するつもりでした。正しさが常に重要ですから。
     それなのに、私のご案内をどう血迷って取り違えたのか、>唐突で喧嘩腰 と邪推して、反論のための枝葉の揚げ足取りに執着したので、肝心の本題には一言も触れず仕舞ですから。当て外れもいいところでした。

     ただ二つだけ申し述べましょう(一つは別記)。
     そもそも宗教とは、「不合理であるから信じるのではなくて、不合理であるが故に信じる」ものでしょ。それなのに、
    >物理的に(もちろん精神的にも)証明不可能な憶測、
    と、宗教関係分野の方から、「証明不可能」の言葉が出たのには、強い衝撃を受けました。
     宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。(余計なお世話? 私って思いやりがあるでしょ。(^^))

     以下に「用をなしうるや?」にチョット補足します。
     典型例では、米国大統領の就任式で、聖書に手を載せて宣誓しますね。キリスト教は少なくともこういう面では生きていて、人間の行動の規範となっていることを垣間見させます。又イスラムでは、天国へのパスポートとして、自爆テロが世界各地で多発しています。民衆の現実生活の中に、イスラムの教えが息づいているのがわかります。
     翻って仏教は? タイ、スリランカなどの中・後進国で日本人が小乗と軽蔑する南方仏教が細々と生きているだけ。仏教発祥の地・インドでは、仏教信者数約470万人、全人口のわずか0.7%、しかもその信者達は所謂不可触賎民であって、現在のインドにあって社会的影響力に乏しいという惨状。
     仏教は確かに、過去には多大の恩恵を与えてくれたのでしょうが、これからは果たして如何なものでしょうか。ヒョットして万里の長城? ましてや、「人生皆苦」や「空」ではね。

29/ 「汝もまた信仰を捨て去れ。」
・投稿者/ モンチー
・投稿日/ 2003/08/02(Sat) 05:31:12
・URL/ http://www.urban.ne.jp/home/sugano/index.htm
・IP/ 202.231.166.69

    >宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。
    >それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。
    >科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが・・・・

    上記のような信仰をブッダは
    「汝もまた信仰を捨て去れ。」(スッタニパータ:1146) と言うのである。

    譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを聞くように、方向に迷った者に道を示すように、
    あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、
    ゴータマさまは種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたくしはここにゴータマさまに帰依します。
    (スッタニパータ:82)

38/ 仏教における「信」
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/08/12(Tue) 13:07:58
・IP/ 4.60.144.241

    >宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。

    上のみのるさんの投稿を念頭に置いて『永遠の世界観 華厳経』(筑摩書房刊、玉城康四郎著)を再読していたら、ちょうどよい記事を見つけました。昨今ではこのような学者による見識はいたるところでよく耳にするので、仏教をそこそこご存知の方には常識的知識かと思いますが、参考までに引用いたします。


    (中略)
    われわれは、ここに信ずるということに関して、種々の問題をかかえている。
    第一に、信ずるとは一体どういう意味であろうか。
    第二に、信ずることが人生行路の第一歩であるとは、なにを表わしているのであろうか。
    第三に、信ずることが、同時に人生行路の終局まで貫かれているとは、いかなる事態を指しているのであろうか。
    われわれは、これらの問題に関して、つぎつぎにその意味を解きほぐしていこう。
    第一に、信ずるということが、むずかしいばかりでなく、それに先立って、信ずるという意味が同様にむずかしい。他の宗教にも信ずるということは強調されている。キリスト教には、blief, faith, Glaube などがいわれている。ヒンズー教では、bhakti が強調されている。仏教の信は、これらの宗教の信と類似しているところがある。しかしまた一方では、仏教特有の信が浮かび上ってくる。
    まず大切なことは、信という観念をいかに分析してみても、信の意味はでてこない。そうではなく、信は、実は重要な人生経験であり、この経験には、信の種々の表情が含まれている。その種々の表情を信という一語にまとめたのであるから、われわれは信の観念を勝手に分析するのではなく、人生経験の表情にもどして、これを味わってみなければならない。
    原始経典には、を表わすいろいろの語が用いられている。たとえば、サッダー(saddha)、パサーダ(pasada)、アディムッティ(adhimutti)などである。大乗仏教のサンスクリットでいえば、シュラッダー(sraddha)、プラサーダ(prasada)、アディムクティ(adhimukti)である。
    第一のサッダー(シュラッダー)は、信頼の意味を持っている。

    「老いるときに、戒はよく、はよき安住処であり、智慧は人の宝であり、功徳は盗みによっても奪われない。」(相応部経典、一、六、五一)

    信仰と清浄な心によって食を施す人は、この世においても、あの世においても、食を得るであろう。」(相応部経典、二、三、二三)

    「わたしは、信仰によって在家者から出家者となった。正念と智慧は、わたしのなかで目覚めており、心は、いとも静寂である。」(相応部経典、四、三、二二〜一〇)

    右の文に挙げられているサッダー(信)は、一般的な意味に用いられる宗教的な信仰であり、宗教的な世界に対して信頼の心の確立している状態を指しているのであろう。
    第二のパサーダ(プラサーダ)も、信頼の意味に用いられている。

    「この世に人身を得て、親切で、貪ぼりをはなれ、仏を信じ、法と僧とに深く帰依する。」(相応部経典、一、五、四九〜三、四)

    右の文の信にはパサーダが使用されているが、これもまた、仏を信頼する意味であろう。われわれの人間関係においても、信頼は突然に生まれてくるものではなく、交わりをつづけていくうちに、相手が信頼に価すればおのずからその感情が現われてくるものである。仏は目覚めたひとであり、すぐれた人物であり、これに接する人々が信頼の情を寄せたことは、想像にかたくない。
    ところでパサーダ(プラサーダ)は、もともと、純浄、よろこび、満足などの意味を持っており、原始経典のなかでもそのような意味に用いられている。すなわち、仏を信じ、法を信ずれば、心はおのずから清められ、よろこびの気持が湧いてきて、満足するようになる。昔から、信とは、すなわち澄浄の義なり、といわれているのは、この意味を指したものである。われわれの通常の心はにごっており、垢がついているが、しかし信心は、あたかも清水が底の底まで澄みとおっているように、清浄で純粋である。
    大乗経典の「大無量寿経」のなかには、サンスクリットのプラサーダ(信)をつぎのように用いている。

    「一切衆生が、無量光(限りなき光の仏)の名号をきいて一念を動かし、信心歓喜を伴なえる願望をもって菩提心をおこすものは、ことごとく、究極の悟りから退かない位に安住する。」

    右の文は、無量寿経のなかのいわゆる願成就の文である。プラサーダを、シナ訳でも信心歓喜と翻訳している。この信心は、もとより信頼の意味であるけれども、たんに信頼という態度のみにとどまらず、信頼の結果は、究極の悟りから退かない位につながっており、したがってそれは、究極のさとりそのものにも関係している。それゆえに、プラサーダは、信頼を意味していると同時、その結果としてのよろこびや満足をも包含している。信心がよろこびや満足を持っているとすれば、それが清浄であることは自然であろう。
    第三のアディムッティ(アディムクティ)は、信解と訳されているものである。この言葉には、信じ理解するという意味が含まれている。たんなる盲信ではなくて、むしろその反対の智的信仰あるいは智慧の信心といわれるものであろう。非常に古い経典であるスッタニパータのなかに、パサーダとアディムッティとが平行して用いられてある。その例を見てみよう。これは、ピンギヤという人が釈尊に対していったことばである。

    「わたしは、聖者の言葉を聞いてますます信ずる(パサーダ)ようになりました。目覚めたひとは、心のおおいが開かれ、心は習熟し、しかも叡智をもっておられます。・・・・・・どこにも譬うべきものがなく、打ちまかされることもなく、動かされることもない境地に、わたしはたしかにおもむくことでしょう。これについて、わたしには疑いはありません。このように、わたしの心が信じ了解し(アディムッティ)ていることをご承認ください。」(「スッタニパータ」一一四七、一一四九)

    ここには、パサーダとアディムッティのニュアンスがよく現れている。ピンギヤは釈尊に接しているうちに、釈尊の心は開かれ、習熟し、叡智の光をもっていることが次第にわかり、釈尊を信頼するようになり、自分の心も清浄になってきた。それがパサーダであろう。そしてピンギヤは、自分もまた釈尊と同じように絶対不動の境地に必ず到達するとおもう。そう信じ了解していることがアディムッティである。
    アディムッティはこのように智的な信仰を意味している。大乗仏教では、仏性(如来蔵)を説明して、仏性とは、信解(アディムクティ)と禅定と智慧と慈悲の混然一体になっているものであると考えられている。ここでもアディムクティは、智慧につながっている。すなわち心のなかから、とびらが開かれ、おのずからうなずくという意味の智慧の信心を指している。
    以上は、について、サッダー(シュラッダー)、パサーダ(プラサーダ)、アディムッティ(アディムクティ)のそれぞれのニュアンスをふりかえったのであるが、なおこのほかに、昔からつぎのような解釈も行なわれている。それは、すべての経典の最初に「如是我聞」(このようにわたしはうけたまわった)ということばがあって、経典の内容が説かれるのであるが、その如是がすなわちをあらわす、というのである。如是(このように)は、うなずく心であり、うけとる心であり、それがすなわち信である。大乗仏教の先覚者ナーガールジュナ(龍樹)の有名なことばに、

    「仏法の大海は、をもって能入となし、智をもって態度となす。」

    というのがある。われわれは、信によって仏法の大海に入り、智によってその大海をわたることができる、というのである。
    うなずく心、うけとる心、すなわち信が、仏法の第一歩であるということができる。ナーガールジュナは、また信をに譬えている。この譬えは、つぎに述べる華厳経のなかにも出ているのであるが、ナーガールジュナによれば、われわれが折角宝の山に入っても、手がなければ宝をとってくることができない、それと同じように、仏法の山のなかにはいっても、信という手がなければ、その真理をうけとってくることが出来ない、というのである。ここでも信は、うなずく心、うけとる心であり、仏法の第一歩であるということができる。
    以上のように見てくると、信にはいろいろなニュアンスがあり、そのときどきに応じてちがったことばが用いられているのであろうが、根本には信という共通の意味が流れている。したがって実際には、信は、信頼・清浄・喜悦・満足・理解というようなさまざまな意味を、混然としてそなえているというのが実情であろう。
    実存哲学者カール・ヤスパースに、「哲学的信仰」という著書がある。その信仰というのは、自己自身を明らかにすることであり、自己確信によって、間断なくより明るく、より意識的にすることである、といっているが、この点からいえば、仏教のうなずく心に似ているといえよう。また、初期キリスト教の護教家にテルトリアヌスというひとがあり、「不合理なるゆえにわれ信ず」(credo quia absurdum est)ということばが伝えられている合理的なものは信ずる必要がない。不合理であり理解し得ないからこそ信ずる、神は、われわれのまったく理解し得ないものであるから、信ずる、という意味であろう。これは、キリスト教の信仰をすべて代表しているものではないが、このような意味の信仰からは、仏教の信は明瞭に区別されるのである。
    このように信は、うなずき、うけとる心であり、仏法の第一歩である。そして信ずる心は、次第に澄みとおり、清らかとなり、よろこび、満足し、ついには心の扉が内から開かれるところの智慧につながっていくのである。宝の山に入って、存分に宝をにいれてくるように、信の功徳は、なにものにも譬えようのないほど大きい。(後略)
    (第三章「菩薩の人生行路 $(C(h(B第一歩」/九〇〜九七頁より抜粋)



    玉城氏はこれに続けて、上記のような信を華厳経がどのように表わしているかを書かれています。

    また、下記は『仏教辞典』(中村元編、岩波書店)より辞書引用です。
    これを見ても分かるように、仏教には他の宗教と類似した「信仰」の在り方と、そうではない、きわめて知的なニュアンスでの「信」の二面が共存していることが窺い知れます。




    $(C(g(B信楽 しんぎょう
    教えを聞いて信じて喜ぶこと。ひたすら信じて疑わず、おのずから心に歓喜が生じることをいう。また、「信」は信じること、「楽」は教えに従って修行し、さとりを願い求めることの意に解釈されることもある(「楽」には願の意味がある)。浄土教では、弥陀の本願を深く信じて疑わず、救済されんことを願うことをいい、「至心」「欲生(我国)」(ともに無量寿経上に見える[→第十八願])と合わせて三信もしくは三心とよぶ。

    $(C(h(B信解 しんげ[adhimukti]
    原語は、強い意向、志向、信頼、確信などの意で、《志楽(しぎょう)》《欲性(よくしょう)》《信》《信受》《勝解(新訳)》など多くの訳語が当てられている。信解もその訳語の一つで、(教を)確信すると同時に了解するという意に解される。この語は法華経に多用され、特に「分別功徳品」の「一念信解」の語は、中国および日本天台とその流れを汲む日蓮宗においては重要な意義を賦与されて理解されている。

    $(C(i(B信仰 しんこう[sraddha/saddha]
    古くは「しんごう」と読んだ。無垢な心で神仏を信頼し崇拝すること。疑惑・不信の反対。宗教特異の用語。仏教信者にとって仏法僧の三宝帰依が必須とされ強調される。ひとえに三宝への信頼があればこそ帰依が生ずる。そして帰依の対象は今生とか特定の時や場所に制約されていず、過去から永遠の未来に向け、そしていかなる状況下にあっても信頼できるものであって、その故に信仰が確立されている。
    仏教では信仰より「信」「信心」という表現のほうが伝統的である。仏教の説く「信」の原語はsraddhaのほかprasada, adhimukti が代表的である。sraddha はインドで仏教以前から用いられた単語で、仏僧は「信」と漢訳した。冷静で客観的な信頼を意味する。解脱に必要な五根や七力の最初に数えられ、また心所の一つとして大善地法に配当されている。「信」は疑惑を除き悟りへの基盤であると考える。prasada は「浄信」「澄浄」「信心」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「信」が看取される。また、adhimukti は「信解」「勝解」「信楽(しんぎょう)」などと漢訳される。智慧により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。
    浄土真宗では解信(げしん)と仰信(ごうしん)を説く。「解信」は知的に仏や祖師の教えを理解して得る信で、「仰信」は自分の知識や見解を加えずに無心に得るところの信。ヒンドゥー教では「信愛」(bhakti)を神に至る道の最高と定め、神への熱烈な崇敬からほとばしる思慕の情感を説くが、それに対して仏教の説く「信」はずっと知的で冷静である。

    $(C(j(B信心 しんじん
    仏の教えを信じて疑わない心。親鸞は、阿弥陀如来の誓いを聞いて疑う心のないこととしている。そしてこの信心の定まる時往生もまた定まり、成仏すると説く。信心は如来から与えられるもので、信心が得られるのは、わが身は限りない罪悪深重の凡夫であると深く思い、こうした罪悪のかたまりであるから、自己を頼みとすることはできず、自己放棄=他力を頼む以外にないと深く信ずる心を持つことであるとする。


15/ さて、さて・・・・
・投稿者/ モンチー
・投稿日/ 2003/07/28(Mon) 06:57:47
・URL/ http://www.urban.ne.jp/home/sugano/index.htm
・IP/ 202.231.165.200

    >総まとめをしますと、あれやこれやで仏教の教えは二十一世紀以降に全く用を成さないものなのですよ。
    >引導を渡して舞台から消えてもらうべきと愚考していますが、如何なものでしょうか?

    私にとっては、

    「吹く風も、降る雨音も、川の流れも・・・・
    有りとあらゆるものが、多くを語っている。

    無用なものは、何一つ存在していないのだが。」

16/ お久し振りです、モンチーさん(^^)
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/28(Mon) 17:32:37
・URL/ http://6927.teacup.com/mminoru/bbs
・IP/ 4.60.144.241

    私としてはむしろ「彼女募集中」の何が悪いのか、もしくはそれが何故「真正の仏教徒」でないということになるのか(私が実際どうであるかは別にして)、みのる氏にご高説を伺いたいところなのですが・・・正直、あまり期待してません。
    同掲示板に貢献する話題でもなさそうですしね。


    モンチーさん、お久し振りです(^^)
    お元気そうで何より。

30/ 「彼女募集中」
・投稿者/ モンチー
・投稿日/ 2003/08/02(Sat) 07:14:26
・URL/ http://www.urban.ne.jp/home/sugano/index.htm
・IP/ 202.231.166.69

    良き伴侶が与えられますよう、祈っています。
    (キリスト教的祈りも、いいものでしょ?)

31/ 痛み入ります(^^)
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/08/02(Sat) 13:57:05
・IP/ 4.60.144.241

    祈りと励ましのお言葉、痛み入ります。
    モンチーさんは、いつもタイミングよく、しかもわずかな言葉(特に引用)で有効にポイントを突いた合いの手を入れてくださるので大助かりです。
    今後も頼りにしております。
    よろしくお願いします。



    ところで、ここでこの掲示板にいらっしゃる方々全員にお伝えしておきたいことがあります。
    私はこれまで自分の「仏教好き」を繰り返し強調してきましたが、実はキリスト教を含めた諸宗教、哲学、神話学、民俗学といった分野の愛好家でもあります。
    ただ、少なくとも今はそれらすべてに手を伸ばすだけの余裕が自分にはありませんし、仏教という分野自体がすでに広大な知識体系なので、止むを得ない場合を除いて、これ以上こちらにおける行動範囲を拡大することはありません。
    最も自分に近しい仏教とその周辺(仏教の発展に関わった宗教など)のみに的を絞らせていただきます。
    また、体験的な話になるとどうしても話相手との(信仰形態、生活環境、教育水準、肉体年齢、精神年齢、性別などといった)土俵の差異や距離が障害となり、ややこしく切りのない議論になりがちですが、知識の交換や確認ならば同じ書物を読めば済みます。
    そういった事情から、こちらでは

    「仏教、そして必要あらばその周辺に関して、信仰的で体験的な情報を発露したり特定の宗教的目的意識を発揮するのではなく、手元にある辞書や専門書を使うなりしてどうにか学術的情報だけのコミュニケーションをする」

    という方針を、少々実験的な意味合いをもって採用することにしております。
    宗教分野である以上、今後なんらかの必要に応じて例外も多数生じるとは思いますが、こちらではあくまでも上の方針に則って運営させていただきます。


    また、私自身は縁あって「信仰」に生きてはおりませんが、だからといって「信仰」を侮るわけでも否定するわけでもありません。
    私は「人間」という現象がある限り、「宗教」という現象が存在するのも当然であり、そこに「信仰」や「非信仰」といった諸現象が含まれるのも当然であると考えております。




    繰り返すようですが、モンチーさんの親切なご投稿にはいつも感謝してます。
    今後もなにかとお世話になると思いますが、どうかよろしくお願いします。

26/ Re[2]: 空殻の立場について
・投稿者/ みのる
・投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:43:28
・URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/
・IP/ 211.123.224.107

    空殻さんへ−2、私がガッカリしたわけ。
     「初めに言があった。・・・言葉は神であった。」のキリスト教ならいざ知らず、「不立文字」が地下水脈として底流している仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
     それは、仏教の正面入口とされる坐禅が、「調身、調息、調心」のように体(の形)から入るし、又心経が端的に示すように、「観自在菩薩、・・を行じる時、・・苦厄を度したもう」つまり、仏教は、行じなければ肝心のところはわからないのですよ。
     早い話が、「痛い」ということは言葉でいくら説明しても実感できないでしょ。一発殴られたり、どこかを切られたりして体験して初めてわかるのです。仏教は「体認」が重要なのです。ですから、「面壁九年」があるわけです。
     言わんとすることは、釈尊が必要と判断されて決められた五戒を厳守して初めて、釈尊の悟りに多少とも近づけるのですということです。(ああそうか、あそこはこういうことを意味していたのかと忽然とわかるようになるのです。)(それでも
    容易には近づけない?)

     そんな考えの中で、「仏教文献学専門サイト」を見た時にどういうわけか、何かを求めてこの道に進み、長い参禅や五戒の厳守の修行をなさった今時稀有な真正の方と早トチリしてしまったのです。今思えば浅はかでした。(^^)
     そんな先入観があったので、あなたのプロフィールで「彼女募集中」を見て、なんだこりゃ、ただのミーハーと同じ神経の持ち主じゃないか、これじゃいくら仏教文献を読んだって仏教の何たるかがわかるはずがないと、落差が大きかった分幻滅を感じてガッカリしたのです。 以上で説明になりました?

     それにしてもあなたは何故、このやり取りをYahoo!掲示板にカキコしなかったのですか?皆さんが参考になって喜んだでしょうに。(私って親切でしょ。(^^♪)

28/ 不邪淫戒について
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/31(Thu) 14:46:14
・IP/ 4.60.144.241

    >「不立文字」が地下水脈として底流している仏教

    果たしてそうでしょうか。
    それはみのるさんの個人的な意見であるとお見受けします。
    お読みになられた方はご注意ください。

    >更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。

    そうでしょうか。
    そのように「どうせ何もわからない」と決め付けてよいものでしょうか。
    字面を追っていても何かがわかるかも知れませんよ。
    もしくは、字面を追わなければ分からない何かがあるやも知れません。

    >それは、仏教の正面入口とされる坐禅が「調身、調息、調心」のように体(の形)から入るし、又心経が端的に示すように「観自在菩薩、・・を行じる時、・・苦厄を度したもう」つまり、仏教は、行じなければ肝心のところはわからないのですよ。

    仰るとおり、一般的に仏教は行じなければ肝心のところはわからないとされています。ただ、だからといって「字面を追う」ことでは何も分からない、得られないとされるのは極論であり、また早計です。逆に、読まねば分からないことの方が多い可能性もあります。

    例えば、禅でいう「不立文字」「以心伝心」の典拠とされる「拈華微笑」のエピソードは偽経と認められる『大梵天王問仏決義経』に見られるわけですが、このエピソードが読まれなければ「不立文字」というコンセプトも正式には成り立たなかったかも知れません。また、それが学者に読まれ、彼らによる文脈や表現方法、考古学的出土品などの調査研究を経なければそれが偽経であるとはいつまでも判明せず、われわれ一般人もまた学術書を読まねばこれが偽経である(またはそう認められている)とは分からないのです。
    このことからも、「読む」という行為が如何に大切であるかが知れると思います。

    ところで、「坐禅が仏教の正面入口とされる」というのはみのるさんの個人的なご意見であると見受けます。
    お読みになられた方はご注意ください。

    >早い話が、「痛い」ということは言葉でいくら説明しても実感できないでしょ。一発殴られたり、どこかを切られたりして体験して初めてわかるのです。仏教は「体認」が重要なのです。ですから、「面壁九年」があるわけです。

    仏教には「実践」が重要だとはよく聞かされますが、なぜ「ですから面壁九年がある」なのでしょうか。

    >長い参禅や五戒の厳守の修行をなさった今時稀有な真正の方

    なるほど、みのるさんは「長い参禅や五戒の厳守をした人」を「真正」であるとおっしゃるわけですね。

    >「彼女募集中」を見て、なんだこりゃ、ただのミーハーと同じ神経の持ち主じゃないか、これじゃいくら仏教文献を読んだって仏教の何たるかがわかるはずがないと、落差が大きかった分幻滅を感じてガッカリしたのです。 以上で説明になりました?

    まず、五戒の一である不邪淫戒について説明させていただきますと、これは「女性と付き合ってはならない」ということではなく「夫が妻以外の女、または妻が夫以外の男と肉体関係を結ぶことや、夫婦でもよこしまな方法などで性交を行なうことを禁ずる戒」のことをいいます。
    つまり、「彼女を募集すること」は五戒に抵触しないということが分かります。
    「長い参禅や五戒の厳守をした人」を「真正」とするならば、もしかすると私はおっしゃるところの「真正」なのかも知れませんね(苦笑)

    したがいまして、「彼女募集中を自称するのはミーハーと同等であって、ミーハーと同じく仏教の何たるかがわかるはずがない」と押し付けがましく決め付けられるのもまた浅薄な極論なのではないでしょうか。(ミーハーを自称する方にも失礼ですし)

    >それにしてもあなたは何故、このやり取りをYahoo!掲示板にカキコしなかったのですか?

    大して理由はありません。
    あえていえば、なんとなくといったところでしょうか。



    下記は親記事です。



    [26]  RE:空殻の立場について
    □投稿者/ みのる
    □投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:43:28
    □URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/


    空殻さんへ−2、私がガッカリしたわけ。
     「初めに言があった。・・・言葉は神であった。」のキリスト教ならいざ知らず、「不立文字」が地下水脈として底流している仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
     それは、仏教の正面入口とされる坐禅が、「調身、調息、調心」のように体(の形)から入るし、又心経が端的に示すように、「観自在菩薩、・・を行じる時、・・苦厄を度したもう」つまり、仏教は、行じなければ肝心のところはわからないのですよ。
     早い話が、「痛い」ということは言葉でいくら説明しても実感できないでしょ。一発殴られたり、どこかを切られたりして体験して初めてわかるのです。仏教は「体認」が重要なのです。ですから、「面壁九年」があるわけです。
     言わんとすることは、釈尊が必要と判断されて決められた五戒を厳守して初めて、釈尊の悟りに多少とも近づけるのですということです。(ああそうか、あそこはこういうことを意味していたのかと忽然とわかるようになるのです。)(それでも
    容易には近づけない?)

     そんな考えの中で、「仏教文献学専門サイト」を見た時にどういうわけか、何かを求めてこの道に進み、長い参禅や五戒の厳守の修行をなさった今時稀有な真正の方と早トチリしてしまったのです。今思えば浅はかでした。(^^)
     そんな先入観があったので、あなたのプロフィールで「彼女募集中」を見て、なんだこりゃ、ただのミーハーと同じ神経の持ち主じゃないか、これじゃいくら仏教文献を読んだって仏教の何たるかがわかるはずがないと、落差が大きかった分幻滅を感じてガッカリしたのです。 以上で説明になりました?

     それにしてもあなたは何故、このやり取りをYahoo!掲示板にカキコしなかったのですか?皆さんが参考になって喜んだでしょうに。(私って親切でしょ。(^^♪)

35/ ブッダにおける欲望論
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/08/10(Sun) 08:46:08
・IP/ 4.60.144.241

    今回のことでゴータマシッダールタの欲望観、特に不邪淫戒について興味がわきまして、いろいろ再読してみました。
    副島正光著『釈迦』中に引用される『仏説摩$(CTx(B女経』の一節や中村元訳『スッタニパータ』などを見ると、特に後者でゴータマシッダールタは在家者に対しては『不邪淫戒について[28]』で私が説明したように不倫や浮気を戒めているようですが、出家者に対しては「淫欲に耽ること」を禁じています。また中村版『スッタニパータ』によると、シッダールタは一人の見目うるわしき神に対して、最上の喜びの一つとして「妻子を愛し守ることである」といっております。
    一方、辞書を見ると、石田瑞麿著『仏教語大辞典』や法蔵館の『仏教学辞典』にはあくまで「不倫や浮気やよこしまな性交を禁じたもの」と定義されるだけであるのに対し、中村元編の『岩波仏教辞典』には「五戒」であるなしに関わりなく一般に「不邪淫戒」といった場合、「邪淫」という項目で「出家者に対しては清浄な行の妨げになるため全面的に禁じたが、在家者にはよこしまな性行為のみを禁じた」といった内容が書かれています。
    しかし同『岩波仏教辞典』によると、「五戒」はあくまでも「在俗信者の保つべき戒」であると定義されていて、もしそれが正しいとすると、「五戒」を厳守する者は在俗であり、「五戒における不邪淫戒」である「不倫・浮気禁止」を厳守する者であるということになります。

    さらに興味深いのは、『仏教の思想・智慧と慈悲[ブッダ]』(増谷文雄・梅原猛著、角川文庫ソフィア刊)で増谷文雄氏が「ブッダによる(とされる)漢訳前の言語表現」と『ウダーナ』の一節について言及し、そこから「ブッダは禁欲を説いたのではなく、あくまで中道を問いたのだ」と主張していることです。
    参考までに該当部分全文を引用させていただきます。
    これが仏教学界の通説となっているかは分かりませんが、少なくとも下記のような見解が著名な仏教学者の方によってなされているということだけでもご報告させていただきたいと思います。


    否定さるべきものは激越な欲望である

    ブッダ・ゴータマの最初の説法は、欲望をその中項として展開された。では、いったい、この師は、欲望というものをどのように考えたか。また、どのように処理すべきものとしたか。そのことをじゅうぶんに検討しておかなくては、ブッダ・ゴータマの実践の体系は理解しがたい。しかるに、ここでもまた、ブッダ・ゴータマの欲望論についての一般的な誤解を解きほぐすことから始めなければならないことを遺憾とする。
    その一般的な誤解というのはほかでもない。ブッダ・ゴータマのおしえは欲望をすてることを説くもの、仏教とは欲望を捨離せよと語るものであるかのように受けとっている向きがおおいそれは誤解であって、その点をまず明確にし、訂正しておかなければ、ブッダ・ゴータマの欲望論はこれを明快に語ることを得ない。そして、そのことを明確にするには、まず、この師のもちいた欲望に関する術語を吟味してみることが、もっとも手近な方法であるように思われる。
    たとえば、さきの「四諦説法」において、欲望に言及してこの師がもちいたことばは《渇愛》(tanha)であった。《渇愛》とは、すでにさきに指摘したように、もと「のどの渇き」ということばである。それによって彼は、喉のかわける者が水を求めてやまざるがごとき「激しい欲望のはたらき」を表現しようとしているのである。「こは苦なり」。この苦なる人生を克服するためにはどうしたらよいか。それには、かかる激しい欲望のはたらきをなくすればよい。それが「こは苦の滅尽なり」という命題をもって打ち出されている。そのいずれの場合においても、ブッダ・ゴータマは、けっして欲望そのものを表現することばとしてこの語彙を用いているのではなくて、ただ、欲望のはたらき――それは激越にして好ましからざるはたらき――を表現することばとしてそれを行使している。その慎重な用法に、わたしどもはまず注目しなければならないのである。
    また、たとえば、ブッダ・ゴータマは、そのような好もしからぬ欲望のはたらきを《貪》(raga)という用語をもって語っている。後年の彼の用語法においては、その用語は、さきの《渇愛》よりも、はるかに頻度数がおおい。しかるに、その用語は、これもまたすでに指摘したように、もともと「赤」もしくは「燃焼」を意味することばである。それによってブッダ・ゴータマは炎のように燃える欲望のはげしいいとなみを表現する。それは人々を焼きさいなむ。それをわが胸中にいだくかぎりは、やすらぎはいつまでも望みがたい。しかるに、シナの訳経者がそれを《貪》と訳するにいたって、そのイメージは影うすいものとなてしまったけれども、なお「煩悩のほのお」などという表現のなかに、その名残をとどめている。ともあれ、それもまた、欲望そのものを表現したことばではなくて、その激しい、恐ろしい、好もしからぬはたらきをこそ表現しているのである。
    他方、経典のなかに見えるブッダ・ゴータマのことばは、彼がしばしば「少欲」を称賛し、「知足」を強調した人であったことを示している。その意味するところをまた、ここでしずかに省察してみるに足るものがある。もし、彼が欲望を全面的に否定する人であったとしたならば、彼はそれを「あますところなく滅し、捨て、去り、脱す」べきことを説かねばならなかったはずである。しかるを、なにゆえに「無欲」ではなくて「少欲」を語り、「滅尽」ではなくて「知足」を語ったのであろうか。それもまた、彼がまったき欲望の否定者ではなく、彼が「あますところなく滅し、捨て、去り、脱す」べきことを説いたのは、「渇愛」もしくは「貪欲」、すなわち、越度の欲望のありように対してであったことを示しているのである。
    では、彼はいったい、欲望そのものをどのように考えていたか。それをにたいする応えは「無記」(avyakata)である。「無記」とは、善悪を区別する以前に立つということである。彼は、欲望そのものをとりあげて、それを一方的に善とも悪とも断定的に語った人ではなかったのである。だが、そのような問題のとりあげ方は、いわば今日的なものであって、ブッダ・ゴータマ自身が、正面からそのような問題に取り組んだような証拠は、どこにもない。ただ一つの経(『ウダーナ』〔自説経〕六、八、「遊女」)は、彼が側面からその問題に触れて、つぎのような偈(韻文)を説いたと記している。
    それは、ブッダ・ゴータマとその弟子の比丘たちが、ラージャガハ(王舎城)のちかくのヴェールヴァナ(竹林)の精舎にとどまっていた時のことであった。ある日のこと、ラージャガハの町に托鉢に行ってかえってきた比丘たちは、師のまえに出てこんなことを報告した。それは世間によくあることであるが、遊女を奪いあって二組の男たちが大喧嘩をした話であった。そのために重傷者も出たらしい。比丘たちが、いささか興奮しながら、そのさまを詳しく語るのを聞いて、ブッダ・ゴータマは、誰にともなくつぶやいた。それがかなりながい偈になって記されているが、そのなかにつぎのような一節がある。

    禁欲を行じ、梵行をいとなむも、それは一つの極端である
    欲望のなかに過誤なしとするも、また一つの極端である

    欲望を一途に禁圧するをもってよしとするのは、いわゆる禁欲主義である。それも一つの極端であるとする。それに反して、欲望はすべてこれをよしとするのは、いわゆる快楽主義の主張である。それもまた一つの極端であるとするのが、この偈の意味するところである。それは、つまり、欲望そのものをもって、直ちに、そして固定的に、よしともあしとも裁断しない立場なのである。「無記」とは、そのような立場をとることなのである。(一六七〜一七一頁)


    また、同氏は筑摩書房刊『仏教概論』(一二七〜一三二ページ)において上とほぼ同様の内容を書いており、そこでも、ゴータマシッダールタが四諦説法において「欲望」という言葉を一切使用せず、代わりに「タンハー」「ラーガ」といった欲望の劇的な部分的作用を現わす言葉のみを用いて説いていることに注目してます。

87/ Re[2]: 空殻の立場について
・投稿者/ 大閑道人
・投稿日/ 2004/01/06(Tue) 12:59:53
・IP/ 219.164.81.244

    空殻師が主宰するこの掲示板の主旨に従った書き込みになるかどうか、まったく自信がないのだが・・・

    不立文字は、不用文字とは違う。単に、真理は文字に乗り切れない、というほどのこと。
    ⇒ 私は、個人的に「真理は何語で語って来るのか?」を学生時代の課題とした。
    で、真理は、言語では語ってこないで現象で諭すことを、体験として、知った。

    梵語文献を学生時代に読まされたので(苦い思い出!)、その知識を基にして言えば、
    日本語には「しる(知る)」に関する単語がない。「しる」の一語のみ。

    漢語ならば、知る・識るなど、多彩にある(※ どういうわけか、日本語辞書がこの掲示板では、展開しない)。
    梵語においても、知るについて「近づく」とか「(それに)成る」とか、さまざまな単語が類比的に「知る」を表現している。

    つまり、文字情報として知識の形で「知る」と、実際体験の上で「知る」とは、同じ「知識」でも次元が違うのだ。

    さらに、
    >仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
    というのであれば、それ以前の原語=サンスクリット語に戻りなさい、ということになるけど、言語は、如何なる言語であっても、その土地土地の歴史伝統分化風俗とともにあるので、本当に梵語母国人にならなければ、微細なニュアンスなどもわかるまい。
    そうなると、それを日本語母国人に正確に伝えることも、無理難題になりますね。

    玄奘の翻訳も、無駄の典型になってしまうでしょう。

87/ Re[2]: 空殻の立場について
・投稿者/ 大閑道人
・投稿日/ 2004/01/06(Tue) 12:59:53
・IP/ 219.164.81.244

    空殻師が主宰するこの掲示板の主旨に従った書き込みになるかどうか、まったく自信がないのだが・・・

    不立文字は、不用文字とは違う。単に、真理は文字に乗り切れない、というほどのこと。
    ⇒ 私は、個人的に「真理は何語で語って来るのか?」を学生時代の課題とした。
    で、真理は、言語では語ってこないで現象で諭すことを、体験として、知った。

    梵語文献を学生時代に読まされたので(苦い思い出!)、その知識を基にして言えば、
    日本語には「しる(知る)」に関する単語がない。「しる」の一語のみ。

    漢語ならば、知る・識るなど、多彩にある(※ どういうわけか、日本語辞書がこの掲示板では、展開しない)。
    梵語においても、知るについて「近づく」とか「(それに)成る」とか、さまざまな単語が類比的に「知る」を表現している。

    つまり、文字情報として知識の形で「知る」と、実際体験の上で「知る」とは、同じ「知識」でも次元が違うのだ。

    さらに、
    >仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
    というのであれば、それ以前の原語=サンスクリット語に戻りなさい、ということになるけど、言語は、如何なる言語であっても、その土地土地の歴史伝統分化風俗とともにあるので、本当に梵語母国人にならなければ、微細なニュアンスなどもわかるまい。
    そうなると、それを日本語母国人に正確に伝えることも、無理難題になりますね。

    玄奘の翻訳も、無駄の典型になってしまうでしょう。

90/ 学術的行為の意義
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2004/01/06(Tue) 14:49:29
・URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/
・IP/ 4.60.158.54

    そういった内容で問題ありません。
    むしろ、素晴らしく参考になるのでどうかご遠慮なく。

    お説ごもっともです。
    このことは前述の「信」についての記事をご覧いただいても分かることですが、サンスクリット語やパーリ語の場合、原語が何を意味する言葉であるかによって日本語においては同じ「信」でも、大幅にニュアンスのかけ離れたものになることがありますね。
    しかし、それはある意味、「信」の本質がひとつではないということ、そして具体的にどのような行為や現象に基づくものであって、どんな作用があるものなのか、などという母国語の日常語に普通に触れているだけではおそらく考えもしないような分析的な目で、その行為や心作用を観直す切欠になる。
    もちろん、それを最終的に吟味して本当にそうなのかを確かめるのはわれわれ自身であって、それはただの切欠であって誘引でしかない。
    この行為の結果として、物事(特に自分自身の本質)に対する理解は深まると思われる。

    上記のような事例から、学術的行為は有意義だと私は考えます。



17/ 空殻さん、始めまして!
・投稿者/ 悟愛
・投稿日/ 2003/07/29(Tue) 11:41:10
・IP/ 211.121.245.113

    「仏教について」のカテで、ご紹介されているも関わらず、
    挨拶が遅れまして、申し訳御座いませんm(__)m
    洲崎さんはじめ仏教の素晴らしさを感受されている方々に、
    お会いできた事に、心から感謝する次第であります。
    空殻さんの「密厳浄土」は実に素晴らしい「空」の世界を、
    展開されると、期待が高まります。
    因みに私も仏教徒ではありませんし、仏教を宗教とも思っていません。
    私にとって仏教とは、宗教を超越した、素晴らしいビジョンだと思うからです。

    さて、例の投稿について、実は私も(横レスでしたが)色々と意見を述べさせていただきました。
    私個人としては、仏教の素晴らしさを、より感受する「縁」だと思いました。
    モンチーさんが、仰るようにこの世には「無駄なものはない」と、思う次第でした。
    その点で、是非善悪を完全超越する仏教の本質(慈悲)は、実に素晴らしいものだと、再確認できました。

    実は、「仏教は宗教を超越しています」というタイトルで、意見を述べてみました。
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=ja965a4ka4da4a4a4f&sid=1835217&mid=4132
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=ja965a4ka4da4a4a4f&sid=1835217&mid=4133
    これは、あくまで私自身が感受した仏教に基づいたものです。

    私には、空殻さんの力強い熱意が痛いほど伝わります。
    これからも、「密厳浄土」という、素晴らしい空間の営みを陰ながら見守りたいと思います(^^)

    ではでは。。(^^)/

    --悟愛--



18/ ありがとうございます。
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/29(Tue) 13:26:35
・IP/ 4.60.144.241

    悟愛さん、はじめまして。

    まだサイト自体立ち上げたばかりで、同掲示板も未だ開拓の前段階といっていいほど不完全極まりない現状ですが、長い目で見て育てていきたいと考えております。
    暖かい応援のお言葉をいただけたことに感謝します。
    ありがとうございました。

19/ 悟愛さんへ
・投稿者/ モンチー
・投稿日/ 2003/07/29(Tue) 18:25:33
・URL/ http://www.urban.ne.jp/home/sugano/index.htm
・IP/ 202.231.165.189

    中 道

    人類は、自分たちを過激な物質主義者だとするものと、
    ひとえに信仰に生きるものと、二つのグループがあるように見える。
    そして、そこにはより深い考察が見当たらない。

    二つの世界、二つのキャンプがあるようなものである。
    仏教はそのどちらにも属さない。一面では仏教は心の科学である。
    宗教ではないから、どちらのグループに属することも受け入れない。
    他面では、仏教は非常に精神的である。

    瞑想などをそのうちに含んでいる。
    それがやはりどちらのグループに属することも許さない。
    仏教は二つのグループの中間に止まっている。

    (ダライ・ラマ14世)

21/ そしてまた私の立場ですが
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/07/30(Wed) 07:18:08
・IP/ 65.168.28.131

    モンチーさん、こんにちは。
    今、一〇分休憩中の空殻です。

    中道。
    私が自分を仏教徒であるか否かと申し上げたくないのは、まさにそこにあります。
    つまり、どちらかであると断言することで、仏教の本質(であると私が思っていること)をご存知ない方は、私の立場をおそらくは「信仰に生きるグループ」もしくは「物質主義に生きるグループ」のどちらかに属する性質のものであると誤解するだろうと憂慮したからです。
    だから、仮にその引用の内容が正しい仏教の在り方だとすれば、私はその意味において初めて、自分を仏教徒である、もしくは仏教者であるということができます。
    ただし、一般的に仏教といった場合、それは引用にある在り方と信仰に偏った在り方の両者を包括するものと見受けます。
    従いまして、この掲示板においては特に、私は自分が仏教に「属している」もしくは「属していない」とは敢えていわず、仏教に対してもどなたに対しても、私情を挟まず公平に接したいと思っております。

    すばらしい引用をタイミングよく、ありがとうございました。
    今後もよろしくお願いします。

86/ 私も、仏教徒である!
・投稿者/ 大閑道人
・投稿日/ 2004/01/06(Tue) 12:28:44
・IP/ 219.164.81.244

88/ 盲信に対する免疫
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2004/01/06(Tue) 13:01:41
・URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/
・IP/ 4.60.158.54

    大閑道人さん、こちらへの書き込み、ありがとうございます(^_^)
    ジムに行く前に一言。

    仏教は勉強するとあらゆる盲信に対する免疫になります。
    もちろん、少なくとも私の場合はそういう効果があったということですが。
    これは私にとって有意義なことでした(と信じてます 笑)。

    とはいえ、人はすべてを知ることができないし、知るという行為でさえ脆い現象だから、常に何かを信じざるを得ない。
    だけど、そのことを知っているのと知らないのとでは、その弱点の質に隔たりがあるし、また、それを認識した上に構築される謙虚さの質も変わってくる。
    これらのことを考慮に入れた上で、私は仏教その他を学ぶことを喜びとしている。
    ・・・ということを仏教を縁にして私は知っております。

    空笑



70/ ガンダーラ仏
・投稿者/ 坤
・投稿日/ 2003/12/04(Thu) 03:49:35
・IP/ 219.118.21.126

    はじめまして
    わたしは現在ガンダーラ初期の仏像と初期大乗仏教の関係性を調べているのですが、大乗仏教の中で仏像について書かれた文献があったら教えて頂けないでしょうか?




73/ ガンダーラ美術と大乗仏典・文献
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/12/04(Thu) 16:14:16
・URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/
・IP/ 4.60.148.166

    はじめまして、坤さん。
    書き込みありがとうございます。
    ご質問についてですが、私の現在知る限りではだいたい次のようなことがいえます。

    まず、ガンダーラの仏像というのは主に浮彫の仏伝図(「托胎霊夢」「誕生」「灌水」「幼年〜青年期」「宮廷生活」「出家」「苦行」「降魔成道」「初転法輪」「諸々の説法活動」「涅槃までの変化に富んだ生活」「涅槃」)、礼拝対象としてのゴータマシッダールタや弥勒菩薩、観音菩薩などの単独尊立像、あとは少ないながらも本生譚の浮彫図像がいくつか残っていると認識してます(間違ってたら教えてください ^^;)。

    初期大乗仏教経典、すなわち『八千頌般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』『無量寿経』『阿弥陀経』は、その逸話こそ描かれなかったとはいえ、登場人物としては多く菩薩立像が造られ、明らかに大乗菩薩信仰が当時のガンダーラで盛んだったのだろうと推測できます。ただし、大乗経典の段階ではまだ仏像の具体的な作法が説かれなかったため、経典テキスト中の記述にガンダーラ美術の「図容の直接の典拠」を求めるのは難しいのではないかと思います。
    (仏教文献において、正式に図像の姿形、装飾などに関する詳細な記述が述べられるようになるのは、如来の相好に関するものを除くと密教系の経軌・儀軌の登場を待たねばなりません)

    ガンダーラに残る本生図のうちでもっとも多い『燃灯仏授記』の「授記」や「(大乗の)菩薩」の思想も大乗特有の菩薩思想なので、この逸話が掲載されている『四分律』や新しい菩薩の概念を盛り込んだ『大智度論』『ラリタヴィスタラ』『マハーヴァストゥ』などの記述が資料として有用なのではないでしょうか。

    また、すでにご存知とは思いますが、仏像の尊容としては、仏と転輪聖王に具わり、後に大乗図像学で不可欠な属性とされる「白亳」「頂上肉髻」「輪状に長く垂れ下がる耳たぶ」などの「特相(ラクシャナ)」が見られます。この特相、相好は『阿弥陀経』中、阿弥陀仏の願で若干ながら触れられていたり、『仏本行集経』などにも説かれています。これらの相には異説があり、岩波『仏教辞典』によると『観仏三昧海経』にガンダーラの仏像の特徴を反映したと推測される「(仏は)髭を有する」という記述があるそうなので、そのあたりを調べてみるというのもよいかも知れません。

    それから、吉永邦治著『東洋の造形〜シルクロードから日本まで〜』(理工学社刊・一九九四)によると、宝積部系の『如来不思議秘密大乗経』第十八「金剛杵」(成立・編集年代は推定紀元後一世紀〜ニ世紀)にはガンダーラの浮彫仏画に早期から描かれていた金剛力士=執金剛神がいかに仏典で説かれているかについて、次のように書かれているとあります。図像について書かれているわけではないので参考になるか分かりませんが、取り合えず引用しておきます。
    むかし、釈迦が、中央インドの霊鷲山において、多くの人びとに説法されていたときのことである。金剛の杵をもって、釈迦のそばにいつもいる金剛力士を、阿闍世王はみて、「あの金剛の杵は、どれぐらい重さがあるのか」と思った。この阿闍世王の心を読みとった金剛力士は、それに応えて、「はっきりとした重さがあるわけでなく、杵をもつ人の心の持ち方いかんによって、重くも軽くもなる」といった。そこで、阿闍世王は、自分の力を金剛力士に誇示しようと思い、試しに金剛の杵をもち上げてみることにした。しかし、全身の力を振り絞って杵を動かそうとするのであるが、少しも動かないのであった。
    このことをそばで見聞きしていた釈迦の十大弟子の目建連も、帝釈天に勧められて、その杵を、神通力を使って動かそうと試みたのだが、微動だにしないのであった。
    そこに、金剛力士が杵のそばに進み、なんぴとも動かすことのできなかった金剛杵を、かんたんに取り上げて、空中に高々と飛ばしたり、手にもって羽根車のように回した。その偉大な力に感嘆し、人々は金剛力士に向かって深く礼拝した。
    そこで、阿闍世王は、釈迦の前に進み出て、合掌して、「どのような修行を積むと金剛力士のような神通力を得ることができるようになるのか」と釈迦にたずねた。釈迦は、それに応えて、次のような十法を修行したからであるといった。
    「第一は、自分の命がなくなっても正法は捨てない。第二は、正直で謙遜の心をもち、高慢にならない。第三は、弱い人々をあわれみ、害を加えない。第四は、飢えている人々には食物を与える。第五は、恐怖におののく人々を安楽にする。第六は、病気に苦しんでいる人々を治療する。第七は、貧乏な人々に恵みを与える。第八は、仏塔や仏像を見れば、そこを清める。第九は、心のこもった言葉をもって、人々を慰める。第十は、荷をもって疲れている人々をみたら助ける」

    この他にも、東京美術刊、錦織亮介著『天部の仏像事典』によると、『大宝積経』に「昔、勇群という転輪聖王がおり、千二人の王子があったが、千人の王子は発心成仏して千仏となり、二人の王子は一人を法意、もう一人を法念と名付け、法意は金剛力士となって兄の千仏の法を護持することを誓い、法念は梵天となってこれらの仏に説法を請うことを誓った」(五四頁)とあり、また『増一阿含経』『大宝積経』『法句譬喩経』などにはこの尊格が釈尊の「倶生神(護る者と倶に生まれる神)」として常に周囲に侍る姿のみを淡々と述べられ、密教系の『摂無礙経』でようやく詳細が説かれるようになったとあります(五五頁)。

    今分かることといったら、だいたいこのような感じでしょうか。

    ちなみに、私はガンダーラ初期というのは紀元一世紀末頃から三世紀初頭までと考えています。この想定に問題があったらお知らせください。

    何か面白いことが発見できたら教えてくださいね(^_^)

83/ 『仏教美術入門』より
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/12/23(Tue) 14:30:13
・URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/
・IP/ 4.60.158.54

    以下は、最近古書店で購入した佐和隆研著『仏教美術入門/目で見る仏像の生いたち』(社会思想社)という一般書からの引用。
    まずは大乗仏教美術一般の発生についての簡単な記述です。

    二 大乗仏教美術
    この美術は世紀一世紀終わり頃からはじまっており、その後仏像が成立したあとの浄土思想が流行した時期の美術であります。この時代には釈迦像をあらわした仏伝図も多く作られています。(ガンダーラ・マトゥラー・ナーガルジュニコンダ)しかし礼拝のための釈迦像が大きく作られていることは重大な意味をもった変化であるといわなければなりません。それは塔中心の時代から仏像を中心に礼拝するという、大乗仏教的な信仰形態が確立されたことを意味するのであります。
    この美術が作られた時代には仏教も国外に広く伝えられて、その初期にはすでに中国にまで仏教がひろまっております。五世紀にはすでに南海地方までも仏教が伝えられているのであります。
    この時期の仏教の理想は浄土信仰であり、浄土の表現がさまざまに試みられております
    この時代の美術は八世紀頃まで繁栄しています。日本の奈良時代もこの美術の流行時代であり、最盛期の原典をなるものといってよいでしょう。(十二頁)

    次は、同著にて「ガンダーラ仏像と経典の関連性」に関する記事からの一部抜粋です。
    仏像が制作され得る理由は経典には説かれておりませんが、信仰の対象としての仏の像が作りはじめられるためには、それを認める根拠を経典に説いている仏教自体の思想のなかに求めなければなりません。しかしその明白な根拠を経典に求めることは困難であります。私はただ次のようなことが考えられると思うのであります。
    仏像が成立した前後の頃には大乗仏教思想が成立して、釈尊は人間としての釈尊ではなく、ほとけとしての釈迦として考えられはじめていた時代でした。そのために小乗仏教時代のように塔を礼拝の対象としていたことは何かその考え方においてそぐわないものとなり、新しい信仰・礼拝の対象が要求される時期がきていたといってもよいでしょう。それはほとけとしての釈迦の象徴が要求される時期が到来していたことを示すのであります。
    この考え方によってガンダーラではギリシャ的な仏像が作られ、インド内部ではインドの伝統的な芸術観によって作りはじめられたと考えてよいものと思います。一度釈迦像が作られると、それは仏教が信仰されている地方全体にひろまり、釈迦の像は各地で各様に作りはじめられたのです。また釈迦の姿はそれとともに仏伝のなかにもあらわれはじめます。ガンダーラ彫刻にみられる仏伝の浮彫には人間的な姿をした釈尊の姿のあらわされているものがたくさん現存しております。(同三一〜三二頁)

84/ 『インドの美術』より
・投稿者/ 空殻
・投稿日/ 2003/12/25(Thu) 17:56:18
・URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/
・IP/ 4.60.158.54

    以下は昨日古書店で入手した佐和隆研編『インドの美術』(美術出版社刊)からの引用。
    ガンダーラで仏像彫刻が作られた頃に、この地方では小乗仏教(説一切有部)が信仰されていたので、大乗仏教が仏像を作り出したとすることはできないという考え方もある。しかし一方では大乗仏教も成立しているので、ガンダーラにも大乗仏教(蔵部)がなかったとはいい得ない。恐らく仏像造立のことが考えられるようになり、その考えは小乗仏教においてもとり入れられたのであろう。現在の小乗仏教が信仰されている地方の寺院にも仏像が安置され、礼拝されているのである。ガンダーラ地方では長く小乗仏教が信仰されていたのかも知れない。そのためにガンダーラの仏像には伝記的物語中の釈迦を表現するものが好んで制作されたということも考えられるのである。(後略)(五〇〜五一頁)



全ページ数 / [0] [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16]

掲示板管理者:空殻
[PR] 【FX ZERO】比類なきキャンペーン〜エクストリームキャッシュバック〜
[PR] 【無料】15社の自動車保険を一括見積請求、保険料の徹底比較も可能!
[PR] マネックス証券でオンライントレーディングデビュー。


- 無料掲示板 - Child Tree -
Edited by Kiryuu Web Laboratory as Child Tree K-Edittion v1.29