20世紀は西暦1901年、日本では明治34年です。日本は日清戦争に勝利を収めて世界 列強の一員に加わったところでした。その前年の明治33年には「北清事変」と言わ れるものがあり、中国民衆の外国勢力排撃の運動で、義和団が天津に進出した時、 日本はこれを鎮圧する為に行なわれた八ヶ国の共同出兵(指揮官はドイツの将軍) に最大の兵力を提供してその勝利に貢献したものです。
日本が下関条約(日清講和条約)で遼東半島を獲得するとロシアはフランスとドイ ツを誘い「三国干渉」を行い、これを返還させ、その代償として満州に鉄道敷設権 を得ました。またロシアは遼東半島南部の旅順、大連を租借しました。ロシアは義 和団事件で満州に大軍を送ったが、事件後も撤兵せず、朝鮮に対する圧力を強化し ました。それに対し日本はイギリスと日英同盟を結び、日露戦争を行なって勝利を 収め、ポーツマス条約によって遼東半島南部の租借、南満州鉄道、南樺太等を得た ことは周知の通りです。
この中国と並んで、ヨーロッパ列強の勢力の的となったのがアフリカ大陸です。ボ ーア戦争は、大陸の南端で行なわれたが、戦ったのはイギリス人とオランダ人で す。オランダ人はこの地に殖民していてボーア人と呼ばれていたが、イギリス人が 来住してその植民地となり、そこで奴隷解放の策を取るとそれに反対して奥地に移 住し自分の国をつくっていたのです。この戦争に勝利したイギリスは既にこの大陸 の北部のエジプトをフランスの勢力下から奪い、これを占領下においていたので、 この大陸の南北を連ねる大植民地を形成する勢いとなったのです。
ところが、民族の統一を成し遂げたドイツ帝国が勢力拡大に乗り出し、イギリス植 民地の中間にドイツ領東アフリカと呼ばれる植民地をつくりそれを中断する形とな り、ここで両国の対立の新たな要因が生まれたのです。ドイツがアルジェリアの西 隣のモロッコに進出を図って2回にわたる「モロッコ事件」を起きました。ドイツは 敗退する形となり、モロッコは独立を失ってフランスの植民地となったのです。
ヨーロッパ列強の対立が、20世紀の前半において2度にわたる世界大戦を起したの であるが、日本はその第1次世界大戦においては戦勝国に加わり、ヴェルサイユ条 約においては米、英、仏と共に四大国の地位を占め、太平洋における旧ドイツ植民 地、南洋諸島を統治領として獲得したのです。しかし第2次世界大戦においてはドイ ツ、イタリアと三国同盟を結びアメリカ、イギリスに宣戦し、敗戦国となりすべて の植民地を放棄し、新たに民主主義国として再出発することになるのです。
第2次世界大戦後の世界は民主主義と社会主義、米ソの2代勢力対立の形勢をもたら したが、日本は民主主義陣営に属し、講和条約と共にアメリカと安全保障条約を結 んで植民地状態となりました。ソ連はゴルバチョフ、ペレストロイカの名の下に内 外の政策の全面的な改変が行なわれ、社会主義体制を離脱して自由化、民主化へ進 みました。連邦は解体して共和国の連合体となり、それと共に東欧社会主義諸国も 同盟を解体して体制を改め、東ドイツは西ドイツに吸収されて消滅しました。
アジアにおいては第2次世界大戦における戦勝国であった中国において、戦後間もな く蒋介石の国民党政府と毛沢東に率いられる共産党勢力との国共内戦が終り、後者 が勝利して国民党は台湾に追い落とされてしまいました。共産党の中華人民共和国 は国際連合に加盟し、日本もこれを承認して国交を樹立しました。ソ連、中国の両 共産国は一時地球の3分の1を占めて世界の大勢力となったかに見えたが、両国の間 に「中ソ対立」が起ってソ連はアメリカに接近し、中国は「文化大革命」と称する 混乱が起こり経済も文化もその発展が阻害される状態となりました。
その後、中国の経済的困難は続き、国政も改善されないまま、学生、労働者が北京 の天安門広場に集まり民主化を要求し「天安門事件」を起すというようなこともあ りました。そして「東西の対立」と言われたような対立関係は次第に沈静化し、発 展途上地帯で見られる民族間の対立、紛争も大事に至ることなく収拾されているの が世界の現状です。「サミット」と呼ばれる先進国首脳会議が定期的に行なわれ、 主として経済問題を扱うものであるが、それでも先進有力国の協力が世界の平和と 諸問題の解決に貢献していることは疑いないでしょう。
20世紀の始めにおいて世界は既に一体となり、その中に大小様々の多くの国家が存 在しました。それらの国家のうち強力ないくつかのものが「列強」と呼ばれたが、 その列強が世界の広大な地域に勢力を拡大し、そこに対立、抗争を行なって悲惨な 戦争を繰り返したのです。しかしその間人類の科学技術の進歩は著しく、それが戦 争の武器の上にも革命的な変化をもたらしました。核兵器が出現して、第2次世界大 戦の末期、広島、長崎に投下され日本の敗戦を決定し、且つ日本は世界唯一の原爆 の被爆国となったのです。
この核兵器はやがてソ連も開発するところになり、将来の世界大戦が核戦争となり 人類の絶滅をもたらすことは明らかになりました。そのような意味で核戦争は戦争 を防止する抑止力としての働きをするものとなっているので、今日の平和は恐怖の 均衡の上に成り立っています。だが、戦争が不可能になったということは国家間の 利害の対立を戦争に依らずに調整する途を求めることになり、また対外戦争の誘因 となる恐れのある国内の問題の早期解決を図ることにもなるのです。
そのような行為は国内の社会問題への認識と対処の方法を高めることになりそこに 革命によらない平和的な社会改革の途を拓けたのです。思えば20世紀は戦争の世紀 であると共に革命の世紀でありました。2つの世界大戦の中、多くの革命があり、そ れが戦争以上の惨劇を人々に与えたのであるが、それに頼らなければ社会の進歩が もたらされないという状況も存在したのです。
しかし技術の進歩が革命を不可能にし、またそれを不必要とする役割を演じたこと も争われない。20世紀は戦争と革命によって多くの犠牲を払ったが、それにも拘ら ず人間は生き延び、生活の安定と平和が可能となる時代が到来したことを我々は感 謝しなければならないでしょうが、まだ、世界各地では紛争が続いており経済のバ ランスが崩れていることは確かな事実なのです。
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