昭和16年12月8日に真珠湾を奇襲した南雲司令長官ひきいる第一航空艦隊は、停泊し ていた戦艦四隻撃沈、三隻大破、一隻中破の大戦果を挙げます。そこでもう一度、 攻撃を決行して、船のドックや石油タンクを叩こうという意見がありましたが、南 雲はすぐに引き上げようとする。ここで山本五十六は再度の攻撃を催促するため に、電報の一本でも打つことができたはずです。しかし「南雲はやらないだろう」 とあきらめてしまう。
そもそも、あの南雲の行動は命令違反でもなんでもないのです。軍令部からは「一 次攻撃を終えたら直ちに帰って来い」と言われています。しかも「船は沈めるな よ」と軍令部から釘を刺されているのです。これは太平洋戦争全体にいえるところ ですが、貧乏海軍の悲しさなのです。船を一隻建造するのに三年も四年もかかりま すし、それがいつ完成するかも分からない。そういう貧乏所帯が考える戦争は、こ こ一番でリスクがとれないのです。
日本海海戦のときは、一隻も逃さないという意気込みで、秋山参謀が七段構えの策 を立案しました。そのためには味方を半分失ってもいいと覚悟を決めていた。とに かく講和条件を念頭に置いて、相手を全滅させなければならぬという心構えだった のです。ハワイのときはそこまでの決意がないのです。上手くいくか分からないけ どやってみよう、上手くいったからサッと帰ろう、というのだから、都合のいい作 戦で、中途半端です。
本来ならば、奇跡的に奇襲が成功したのだから、戦果を徹底的に拡充しなければい けません。陸戦においても海戦においても、成果は追撃戦を徹底的にやるかどうか によって決まるのです。アメリカはレイテ海戦のとき、徹底して日本の残艦狩りを やりました。戦闘が終わっていない後も、浮いている艦をみんな沈めています。と にかく伝統的な艦隊決戦思想から最後まで抜けられなかったのです。
軍艦攻撃が最優先され、輸送船や商船、ましてや船のドックや石油タンクなどまと もな軍人には相手をしていられない、というわけです。レイテ海戦で栗田艦隊が突 入をやめてしまった原因のひとつも、攻撃目標が米輸送船団だったからです。武士 道というか、戦争に美学をもちこんでしまったわけです。艦隊派の雄、末次信正が 手塩にかけた潜水艦作戦がほとんど失敗に終わったのも、このためでした。
本来ならば、輸送船を沈め、補給ラインを遮断することが潜水艦の任務なのです が、日本海軍の潜水艦は軍艦ばかりを狙って、全く成果が挙げられなかった。潜水 艦は、水上からの攻撃に弱いのです。艦隊を攻撃しようとすると、どうしても駆逐 艦に見つかって、一方的に制圧されてしまう。軍艦への攻撃を優先しろ、というの は軍令部の要求だったのです。
潜水学校から軍令部へ「艦隊を狙っても駄目だから、任務を通商破壊に変更しろ」 という上申書を出したところ、「国賊」と赤で書かれたものが戻ってきたそうで す。武士たるもの、後方施設やガソリンタンクを破壊するよりは戦艦や空母に立ち 向かえ、という旧態依然たる意識でやっていたのです。しかも、殊勲甲の査定基準 がありまして、戦艦撃沈なら六十点、商船なら七点、これでは戦艦攻撃を優先せざ るをえない。
美学ばかりか、点数主義もありました。というのは、陸海問わず日本軍の悪弊で す。総力戦という概念がわからなかったとしか言いようがない。しかも、悲しいこ とに日本の潜水艦は作戦計画配置表の通り見事に動くのです。たとえば、的艦隊の 後方二四〇度の方向から攻撃せよ、と記されていると、我が潜水艦群は図に書かれ た戦の通りに、きちんと等間隔に並んでしまう。これは潜水艦にとって、戦術運動 としては相当難しく、危険な動きなのです。
外側の艦ほど早く移動する必要があるため、リスクを冒して浮上しなければなりま せん。やがてその規則性に気付いた米軍によって、日本の潜水艦はピンポイントで 次々やられてしまったのです。潜水艦というのは海中のどこに潜んでいるかわから ないから怖いのですが、これではまるで撃沈されるために行列を作っているような ものです。現場は高度な技能を持っているのに、中枢の判断力が鈍いのでそれを生 かしきれなかったのです。
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