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56/ 敵はアメリカよりも陸軍
・投稿者/ タク
・投稿日/ 2008/12/28(Sun) 08:56:36
・URL/ http://members.jcom.home.ne.jp/taku-nakajo/index.htm

    そもそも太平洋戦争の最大の問題は、統一した戦争指導ができなかったことです。
    日本は陸海両翼・両論主義を建前にしてきましたが、そのために両者が競合し、衝
    突する。海軍はアメリカ、陸軍はソ連という二大強国を同時に仮想敵国にするとい
    う無謀きわまりない戦争計画自体、両者の縄張り争いの産物でしょう。世界的に見
    ても、陸海(空)両翼・両論主義が実現できたのは第二次大戦以降のアメリカくら
    いではないでしょうか。

    明治維新直後の日本は海主陸従でした。ペリーの黒船のように日本の独立を脅かす
    外圧は四周の海から来るという認識でした。そのため海軍の充実が最優先項目だっ
    たのです。その証拠に明治初期は「海陸軍」と呼んでいました。それが「陸海軍」
    と順番が入れ替わるのは、明治7年の佐賀の乱、明治9年の神風連の乱、そして明治
    10年の西南戦争と内乱が多発したからです。その鎮圧のたびに、陸軍が拡張されて
    いく。西南戦争以降は、はっきりと「陸主海従」の方向へ進んでいくことになりま
    す。

    加えて、台湾、朝鮮半島に兵を進めたことで、陸軍が人数的に海軍を圧倒するよう
    になります。太平洋戦争終戦時の数字を試算すると、残存兵力と死没者を合わせた
    陸軍総兵力は680万人、海軍総兵力は290万人くらいと倍以上の差がありまし
    た。その強大な陸軍によっていつか呑み込まれるかもしれないという不安と恐怖
    が、つねに海軍にはつきまとっています。

    実際、明治19年に海軍軍司令部(当時は軍事部)は陸軍の参謀本部の風下に置か
    れてしまいます。このとき、「島国の国防はまず海上権を先にすべきものであり、
    せめて陸海軍を平等な立場にすべきである」と主張し、海軍の悲願である陸海対等
    を実現したのは山本権兵衛でした。司馬遼太郎氏は山本権兵衛を「日本海軍のオー
    ナー」と呼んでいますが、もし山本権兵衛が長く政権の座に就いて手腕をふるって
    いたら、海軍の立場はもっと確立していたと思います。

    ところがその山本権兵衛は、大正2年、首相になるや翌年のシーメンス事件で失脚
    してしまう。そのため、山県有朋を頂点とする陸軍の政治力に対抗できる存在がい
    なくなってしまったのが、海軍の不幸でした。太平洋戦争の末期にも、陸海軍統合
    の動きがありました。これは米内、井上が強硬に反対して阻止しましたが、もし実
    現していたら、日本の終戦はずっと遅れた可能性があります。陸軍のいいなりにな
    るのを恐れるあまり、アメリカではなく、むしろ陸軍を敵として、省の防衛を優先
    させてしまった。それが昭和の海軍最大の過ちだったと私は思います。



55/ イラクで拘束された日本人
・投稿者/ タク
・投稿日/ 2008/12/28(Sun) 08:55:42
・URL/ http://members.jcom.home.ne.jp/taku-nakajo/index.htm


    過去、イラク国内で日本人3人が、サラヤ・ムジャヒディン戦士隊と名乗る武装組
    織に拘束されました。ビデオ映像をカタールの衛星テレビが流し「3日以内に自衛
    隊を撤退させなければ焼き殺す」という要求が報じられた。これに対し、日本政府
    は3人の即時解放を求め、自衛隊は撤退しない方針を明らかにした。拘束されたの
    は、劣化ウラン弾の廃絶などを訴える団体の代表を務めるフリーライター今井紀明
    さんと、イラクでの薬の支援をしていた高遠菜穂子さん、フリーライター郡山総一
    郎さんです。

    戦士隊は「貴方達は友人だと思っていたが、米国を支援した」としたと声明を出し
    ています。今井さんは、高校生のときにベトナムに行き、枯葉剤の悲惨さを目の前
    にして平和活動に目覚めたという、民衆の立場にたって事実をみつめようとし、自
    衛隊のイラク派遣に強く反対していました。大義も道理もなかった自衛隊派遣、再
    びこうした事件を起こさせないためにも、すみやかに自衛隊の撤退を表明するよ
    う、日本政府に強く求めます。

    当時の福田総理大臣は官房長官で「応じる理由がない」と、日本政府は自衛隊を撤
    退させるつもりはないことを明らかにしたが、日本赤軍による「ダッカ日航機ハイ
    ジャック事件」の際、「人の命は地球より重い」と述べテロリストを拘置所から釈
    放したのは、父親で当時首相の福田赳夫でした。銃器が500万丁、活動資金1億
    ドルがあると言われているイラクで24の武装組織が確認されています。市中にあ
    る無数の銃器などと旧政権支持者や他国からの多数のテロリストの無制限の流入が
    深刻で複雑な状況に拍車をかけている中です。

    このような3人を見殺しにするような政府決定では、何が人道支援だと思うのです。
    誰が見ても、自衛隊はイラク民の人道支援ではなく、米国の支援です。攻めるよ
    り、退く方が、勇気がいるのです。テロリストの拘束についての情報収集を間接的
    ではあるがNGO同志への働きかけを依頼しました。するとスンニ派ウラマーイスラム
    法学者の組織として最大で、影響力も強い方に働きかけ、現地に縁のある人々の尽
    力と日本国の先人たちが築いたイラク国民やイスラム民との友好が実を結んで人質
    は解放されました。決して、福田さんの力だけではないでしょう。

    日本は恒久平和を希求する国であり、日本国民の中にはその身を挺してでも、平和
    のために寄与する特別な人間もいます。拘束された3人は、自衛隊派遣とはイラク国
    民の復興支援のためであるという表向きの日本国民へのアピールを見抜いて自衛隊
    派遣を反対している3人です。戦争は、如何なる言葉を使おうとも、そこに、存在す
    るものは死である。戦わなくとも、死は隣接している。劣化ウラン弾による被爆、
    飢餓、病、家族を殺され孤独からの死も存在する。自衛隊の無事帰還を祈る家族た
    ち「黄色いハンカチ運動」を見ていると悲しくなるばかりです。



54/ 海軍の技術は財産
・投稿者/ タク
・投稿日/ 2008/12/28(Sun) 08:55:06
・URL/ http://members.jcom.home.ne.jp/taku-nakajo/index.htm


    戦争を遂行した日本海軍がただ悪いばかりではありません。ある意味では、戦後日
    本のモノ作りは、戦争中の教訓をよく生かしたと思います。盛田昭夫は海軍の技術
    将校でしたし、井深大も海軍のレーダー開発などに関わっていたことが、戦後のソ
    ニー創業に繋がりました。

    戦艦「大和」を実際に建造した呉海軍工の現場力は凄いものです。その建造技術の
    レベルはまさに世界のトップだったと思います。工程管理、原価計算、安全管理と
    いった科学的管理方法を、世界に先んじて徹底的に実践していたのです。工員が機
    械から機械に動く動線まで、現場で主任がストップウォッチで測っていたというの
    ですから。

    まさにトヨタが戦後やったような「ムダ取り」です。興味深いのは、日本海軍きっ
    ての航空通で「特攻の父」とも呼ばれる大西瀧治郎が松下幸之助に飛行機を造らせ
    ていることです。松下幸之助は軍需工場に指定され、真空管などを作る流れ作業の
    システムを応用して、木造船を造っていました。

    それで視察に来た大西瀧治郎がベニヤ製の特攻用飛行機を試作させるのです。特攻
    には使われませんでしたが、実際に二機飛ばすことに成功しました。ただ、そのた
    めに松下幸之助に戦後、財閥指定を受けてしまうのです。

    しかし、プラスの面もありました。というのは、兵器に要求される精度は、電球や
    真空管のような民生用と比べ、やっぱり桁が違うのです。海軍の軍需工場になると
    き、松下幸之助は旋盤の精度を三桁上げさせられています。それが技術的には大変
    な蓄積になりました。技術将校の派遣を受けて、指導をもしてもらっています。

    戦後になって昭和27年に松下幸之助はフィリップス社と提携するのですが、フィリ
    ップスのような世界的メーカーと提携できるだけの体力、技術力を戦時中に身につ
    けたのです。職人芸的な良質の技術は残しつつ、規格化、大量生産化を成し遂げま
    した。それには、海軍が培った科学技術や生産技術が、戦後の日本にとって貴重な
    財産となって貢献しているのも事実です。



53/ 恩師に感謝
・投稿者/ タク
・投稿日/ 2008/12/28(Sun) 08:54:32
・URL/ http://members.jcom.home.ne.jp/taku-nakajo/index.htm


    普段、会う機会が少ない、子どもの学校の担任と接する機会があるでしょう。大抵
    は、面談や父母会、懇談会など、具体的な用件があって会うことが殆どです。まず
    は感謝の気持ちを伝えましょう。

    「通知表のコメントは胸に響きました」「先生が子どもに言ってくださった言葉が
    とても有難い」などです。感謝の言葉にひと言、コメントをつけるようにすると、
    先生も人間ですから嬉しいものでしょう。

    本来は家庭でしなければならない分野のことまで、学校の先生に担っていただいて
    いるのが現状でしょうから普段の苦労を労い、感謝の気持ちを忘れずに接すること
    が大切だと思います。

    特に小学校・中学校・高校時代の恩師にとって、生徒はいつまでも生徒であり、と
    きに我が子のような存在です。生徒の成長する姿を見る楽しみは、子どもに対する
    親の思いに似ているのだと思います。

    恩師に対する接し方、話し方は、年を重ね、社会での経験が増すごとに、自分で意
    識するしかないにかかわらず微妙に変化していくものですが、自分が少しでも活躍
    をしている近況を、敬意を持って恩師に接し、先生のおかげであることを伝えると
    喜ばれるものです。

    また、感謝の気持ちを伝える際にも、印象に残っている言葉や具体的なエピソード
    を交えて、現在の自分にどうつながっているかを伝えると、恩師にとって嬉しいほ
    め言葉になります。年賀状を交わす程度の付き合いになっている場合でも、ほめ言
    葉を文面に盛り込むと、気持ちが通じ合うものです。

    ちなみに私の小学校の担任は小学校の女性校長先生までのぼり詰めました。校長先
    生の卒業式に千人強の校長先生の代表で謝辞を行いました。山田美保子校長先生は
    今でも我が家に遊びに来てくれたり、一緒に飲みに行くこともあります。今は山田
    美保子校長先生を教育委員会へ入れようと努力しているところです。自分の担任が
    今でも頑張っている姿を見るととても嬉しいものです。



52/ 敬老の日で思うこと
・投稿者/ タク
・投稿日/ 2008/12/28(Sun) 08:53:57
・URL/ http://members.jcom.home.ne.jp/taku-nakajo/index.htm


    現在、9月の第3月曜日は、敬老の日であるが、元来は9月15日で、関が原の合
    戦と同じ日であった。敬老の日が何故できたというと、養老の滝に関係してくる、
    養老の滝といえば、親孝行の息子が父親にお酒を飲ませてあげていると、お酒の流
    れる滝を見つけるというものです。それを聞いた元正天皇が、元号を養老と定め、
    この話にもとづき、9月中旬頃にお年寄りを招待して、敬老会を開いたというもの
    です。

    この説が本当かどうだがわからないが、1947年、兵庫県の村が、気候が良い9
    月15日を「としよりの日」と定め、この運動がどんどん広がり、「としよりの
    日」という呼び方はよくないので、1966年に「敬老の日」として国民の祝日に
    加えられたのである。

    敬老の日で思うことですが、高年齢者にとって意外と大変なのが、パソコンのダブ
    ルクリックの操作です。父や母を見ていて感じました(笑)マウスボタンを素早く
    2回クリックするのですが、これが何度説明してもなかなか上手くいかない。だ
    が、高年齢者が不器用だとは単純には言えません。人によって、ダブルクリックを
    するスピードが違います。

    ダブルクリックが苦手で、なかなか上手くできないという人は、自分の指のスピー
    ドとパソコンのダブルクリック設定速度が合っていないからだと思います。ダブル
    クリックがうまくいかないという人は、パソコンのダブルクリック設定速度を、自
    分のスピードに合わせればうまくできると思います。

    ダブルクリック速度の設定方法を、XPの手順でご説明すると、スタートメニューか
    ら「コントロールパネル」を選択します。「コントロールパネル」から「マウス」
    を探してクリックして下さい。「マウスのプロパディ」画面が開きますので、「ボ
    タン」タブを選択します。その中の「ダブルクリックの速度」という項目がありま
    すので、ここで速さを調整することが出来ます。調節は、テストボタンをダブルク
    リックしてご確認してください。OKならば「適用」ボタンをクリックして、認識さ
    れなければ速度を微調整して繰り返してください。

    話はガラリと音を立てて変わりますが、石原莞爾のお爺さん次郎が72歳で、孫、石
    原莞爾が18歳のときの対座したときのことです。「どうだ、お前も中国人を見る
    と、チャンチャン坊主と云うのだろう。」次郎の眼がギョロッと光る。莞爾「そう
    です」次郎「それはいかんぞ。清国は、今亡びようとしているが、漢民族は五千年
    の文化をもっている。わずか、千年二千年の歴史しか持たぬ民族が、その小さな物
    差にあてて、彼らの文化を批評しようというのは、おこがましい。アジアの文化と
    いうよりも、世界人類の精神文化に寄与した中国の歴史を軽蔑しちゃならん。日本
    人は何かというと、欧米人を崇拝して、中国人を侮る癖がある。それがいかん。」

    次郎「清国朝廷は、今にもくずれてしまうかもしれない、各国に分割されて植民地
    になってしまう危険は十分にあるが、それだからといって、手を拱いてこれを黙視
    していると、その飛ばっちりは、日本民族にも及んでくる。日華両国はどう考えて
    も兄弟国だ。喧嘩をするという手はない。ところが、日清戦役では勝つ、近く日露
    戦役でも勝つということになると、日本人は、すぐにうぬぼれて、チャンチャン坊
    主だと馬鹿にしだした。お前達は何もしらんだろうが、国を賭した日露戦役でも、
    実は、この中国人が日本を助けてくれたこそ、あれだけの戦果をあげることが出来
    た。それをスッカリ忘れているのだ。わしは、くどいようだが、お前に言うてお
    く、共食いをしたら、結局、とも倒れになるぞ」この次郎の言葉がのちの石原莞爾
    が描く将来の日本国のあり方を決定付けたのかもしれません。



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掲示板管理者:タク
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