永野修身海軍司令部総長は陸軍となぁなぁで、陸軍参謀総長・杉山元との「グッタ リ大将」と「グズ元」のコンビは、昭和天皇を大いに悩ませました。昭和天皇から 対英米戦争の見通しを尋ねられて、杉山元が「南洋方面は三ヶ月で片付きます」と 答え、「一ヶ月で片がつくと言った支那事変は4年経っても終わらないではないか」 と叱責されたときも、永野が横からしゃしゃり出て「ここに盲腸の子どもがいま す。放っておけば死、手術をしても70パーセントは見込みがなく、30パーセントは 助かる算があります。この場合、親としては断固手術をするのみ」と珍妙な助け舟 を出しているのです。
この凡庸な二人が陸海軍のトップにいた状態で対米戦争を始めなければならなかっ た昭和天皇はまことに心細かったのではないか、と同情するほかありません。そも そも永野を総長にもってきたのも、伏見宮なのです。昭和15年の11月に、戦艦「武 蔵」の進水式が長崎で行われるのですが、そこで7年以上も軍司令部に務めてきた伏 見宮が体調を崩す。半年後に勇退となり、その後継に永野が選ばれました。
実はこのとき、山本五十六や岡田啓介などは米内光政を後継に据えようと動いてい ました。山本五十六自身も海軍大臣になるつもりだったようです。しかし、それら の動きは伏見宮の「永野がいい」の一言で吹っ飛んでしまいます。この時点で、永 野は海軍大臣、連合艦隊司令長官を歴任していました。三大要職を一人で務めたの は自分だけだ、というのが最大の自慢だった、という。
永野は海軍の三大醜男の一人といわれていて、伏見宮の好みではなかったと思うの ですが学校の成績は良かった。海軍兵学校でも130人中2番。ハーバードにも留学 しているし、本人曰く「他人がバカに見えてしょうがない」と言う。永野もまた日 露戦争の勇士です。彼は陸戦重砲隊の中隊長(中尉)として、乃木希典の第三軍に協 力するのです。
軍艦の大砲を陸に上げ、山越に旅順港の敵艦を撃ったのですが、観測所もないの に、当てずっぽうの第一弾が旅順艦隊のレトウィザンに命中した。これで、殊勲甲 をもらい、永野の名が一気に海軍内部で売れたのです。永野曰く「心眼で撃った」 そうです(笑)。日米開戦時に現役だった将官の中で、日露戦争を経験した者は山本 五十六候補生と永野中将くらいでした。
下のものからすると憧れの対象になる。ところが偉くなってみるとどうもパッとし ない。いくら実践でがんばった人でも対局的な戦争指導にはからきし向いていなか ったのでしょうか。結局、永野は軍司令部総長になる前も、なってからも伏見宮の いいなりです。宮さまにとって一番都合のよい人物だった、ということでしょう。
永野は国家の命運がかかった場面で、何かを決断したためしがありません。南部仏 印進駐に先立って、昭和十六年の七月、御前会議で「南方進出のため対英米戦を辞 せず」という帝国国策要網が決まったとき、周りに意見を求められても「政府がそ う決めたのだから仕方がないだろう」とまるで他人事です。以前は「南進したらア メリカと戦争になる」とハッキリ言っていたのに。
さらに昭和天皇には「物がなくなり、逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら早い 方がいいと思います」と早期の開戦を勧めたりする。天皇が驚いて「戦争となった 場合、日本海海戦のような大勝は困難だろう」と訊ねると、さらに「日本海海戦の ごとき大勝はもちろん、勝ちうるかどうかもおぼつきません」としゃあしゃあと言 ってのける。これが海軍の最高責任者だというのですから。自分の個人的な成功体 験、勝利体験に則っているだけかもしれません。それこそ、「心眼で撃てば敵に当 たるのだ」と。
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